2008年12月25日

「驚いちゃダメだよ 言葉が全て神だとしても」◆ジョナサン・キャロル『犬博物館の外で』書評

ジョナサン・キャロルは、私がわりと始終読み返している作家の一人で、なんだかんだいって付き合い長いなーとか思います。
『死者の書』(創元社推理文庫)を処女作に活躍している、ジャンル的にはホラー作家で、幸運にもこの本の刊行と同時にこの作家と出会ったようなものなので、時には「この人もう終わったな」とか思った時期もあったりしたのですが、先日最新作を読んでみたら、全然健在でした。嬉しい。
んで、私の中では彼はホラー作家ではありません。それについては後述します。

『犬博物館の外で』は、彼の初のシリーズ物の第4作目(で、シリーズ的にはいったん一区切りついてる)にあたり、珍しくラストにとてつもない光明を見ることができる作品です。
『光明が見えない』ことをもってホラーというなら、ホラーって狭いなーと思うし、この作品がホラーと言うならば、それはこの世に人智では及ばない力が働くことをもってそうと言っているのか、としか考えようがないのですが、ともかく、私はエンターテイメントとして書かれているであろう彼の一連の言葉の端々に、神の息吹を感じるのです。

ということで、あんまり纏まってないけど本題いきまーす。


.
.
ちなみに今回のエントリのタイトルは、今読み返してる『犬博物館の外で』の一節です。 以下は、ミクシの日記用に書いてなんか纏まりないなーとか思って放置していた文章なんですが、とりあえずうpって後で加筆修正なりなんなりしようと思います。
だって今日は、イエスが生まれた(ことになってる)日だもん。




著者のジョナサン・キャロルってフツーにホラー作家として分類されるんだろうし、確かに文学的権威のようなもんは無いんだろうな、とは思う。
(ちなみに文学的権威ってやつを基準に本を選んだことはない)

ホラー作家である以上、「恐怖」は最大の命題なんだと思うし、怖がらせるのは仕事なんだと思うんだけど、この作家ってすごい妙なんだ。
私は教会はくそくらえだと思ってるけど、イエスの語るような神や世界の在り方を信じてる。だから、割と最初からこの作家自身が何を恐怖として捉えているかについては、最初からあんまり違和感なく受け入れてた。

もちろん出来のいいものから、「この作家もう終わったんじゃね?」って言いたくなるようなダメな出来のものもあるんだけど、でもいつも思うのは、この作家の用意する「恐怖のどん底に叩き落とす前の装置としての幸福な一幕」では、この作家自身が本当に世界を愛しているようにしか見えないことだったりする。そして用意される「恐怖」は、たいていがいわば「自身の業」なので、正直余り怖くない。当然の結末として、また、「作中人物がどこで間違えなければこんなことにならなかったんだろうか」と考えてしまう哀しい結末として、私には受け取れてしまう。

だから、この作家の作品の巻末に必ず書かれている解説のように、「幸福な一幕」が安っぽいメロドラマのようには感じられないし、当然のように訪れる恐怖は「恐るべき結末」のようには受け取れない。
それは、作者が描きたい彼らの幸福の本質がおそらくその一連の一幕そのものではなく、一幕の中でふとした瞬間ごとに発見する小さな奇跡=日常のきらめきの連続そのものだからだ。だから、作中人物はそのきらめきに目を奪われたり失うまいとして、さりげないけど決定的な瞬間に己の業を見落してしまい、悲劇に至る、という構造だからだと思う。「幸福な一幕」は、実は追って来る己の業とどのように向き合う羽目になるか、という試練の一幕でもあるのだ、というのが、私の解釈だ。だから決して砂糖菓子のように甘くないし、さりげなく重要な奇跡が散りばめられているように感じられる、んだと思う。


タイトルの言葉は、シリーズ第2作の「炎の眠り」の主人公たちの数年後、彼らの間にできた子供が語る言葉なんだけど、私にはこうした言葉が「ファストフードのように与えられる気の利いた警句」のようには受け取れない。
言葉(rogos)が古代ギリシャーローマ世界において、そして古代ユダヤ社会において、神と触れ合う重大なツールであったことは、この言葉がいかに多重の意味を背負わされているかを思えばすぐに理解ができる。

グノーシス思想(ギリシャ的思想といってもいいのかな)の影響の深い『ヨハネ福音書』の冒頭の句が、「始に言ありき」だったことを思えば、この台詞は収まるべきところ(神の啓示)にきちんと収まっていて、わたしのようなある種のセンチメンタリストの感涙を誘ったりする笑。

著者のキャロルがわかってるな、と感じるのは、この台詞が雑多な蚤の市で無愛想な子供の口から発せられている点。主人公の前で起き続けた小さな奇跡のひとつとして片付けられてしまいそうな、小さなエピソードである点だ。
本作は、サルーという架空のアラブの王国が関連してくるのだけれど、イスラム文化圏内では、一見無意味な言葉やいわゆる啓示を発し続け、日常の枠から完全にはみ出してしまったいわゆる「狂人」は、神から啓示を受けた「聖者」または「預言者」と看做されていることにも注意してほしい。

言葉は神の発したメッセージ、そして時に神そのものであることは、「(キリスト教の影響下にある西欧人が)忘れがちな、重要な真理だ。その重大さをもって、キャロルのホラーは「恐怖」の体を成す。
私たちは、神に用意されたものの、あちこち綻び歪んだ世界に住んでいる、やはり「見る目と聴く耳を閉ざされた」存在だ。私たちができる唯一のことは、少しでも世界を正しい形に戻そうと試みることだけだ。
ちなみに私たちは世界の一部、神の息の一部なので、私たちと世界とは二項対立的存在ではない。私たち自身が正しい形を常に探ることが、世界を正しい形に戻す唯一の方法でもある。
…それがキャロルの提示する世界観であると、私は思う。
安易な言葉で言い換えるならば、キリスト教的「善」に背いた時、恐怖の姿を取った「報い」がクライマックスに訪れるのがキャロル的ホラー、と言ってもいい(のだろうけど、余りに安易すぎてつまんないので、こう説明するのは嫌だ)。


キャロルの小説は幾度も読み返してしまうのだけれど、彼は基本的に「世界」を愛しているように思える、と、私は思うし、この作家を人に薦める度にそう言っているように思う。
けれど、薦めた相手の中には、「この作家はむしろ世界を冷ややかに見ている残酷さを感じる」と言った人がいた。何故そう感じたのかをきちんと聞けなかったのだけど、それは「幸福が恐怖への振幅を大きくするための装置として作用している」という構造だけに注目して出て来た感触だったんだろうか、と、今は思う。

そして、キャロルの提示する「恐怖」が「恐怖」になっていないというか出来が悪い、という人も多いのだけど、これは作中人物たちが立っている世界が日本人一般の世界と余りに異なるからなのだろうか、と、このシリーズを読み返していてふと思った。

自分自身もそこに参画している神の(在るべき世界の)摂理、それに反してまで過剰に己の幸福を求め、執着すること。そのことにより支払わされるツケ。
そんなふうな人生観を持っている、または理解する人間にのみ、彼の「恐怖」は重い恐怖として感じられるのだろうな、と。
ちなみに私が彼の提示する「恐怖」が自然な結末のように見えるのは、自分が「承知の上で求め過ぎたツケはツケで払うしかない」と常日頃思っているせいなんだろうと思う。だから一番好きな3作目の『空に浮かぶ子供』の結末は、むしろその美しさに感動さえおぼえた。
……もしかしたらいわゆる「ホラー」が全然怖くない体質のせいってだけかもしれないけど。


だから、キャロルの真の恐怖は「幸福な一幕」の中にあり、キャロルを読む喜びもまた、「幸福な一幕」のさりげないエピソードの中に在るのだろう、と思う。それで、読み返す度に何かしらの贈り物を貰ったような気分になれるんだろうと。
それをもって、キャロルは厳しいけれど優しい眼で世界を見ていると、私はやっぱり思う。

そして、己の行いの中に常に業を意識する世界観の中にいるキャロルは、現代人の衣をかぶった古代人のような世界観を持っているのかもしれない、とか笑。



ぐだぐだと書いたけれども、言いたかったのは、これだけなんだ。
要は、私はタイトルに使ったこの短い言葉にひどく心を揺さぶられたんだ。
posted by deco at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。