2004年12月10日

マタイ受難曲「憐れみ給え、わが神よ」についてとりとめもなく想う(夜中だからね)

メンゲルベルグ版の『マタイ受難曲』は、1939年4月2日のアムステルダムでの演奏会録音盤という、いわく付きの音源です。何がどういわく付きかというと、ナチス・ドイツのオランダ侵攻を目前にした聴衆たちのすすり泣きも入っているという、ある意味ホラーCDのような代物なわけです。.
私はクラシックは全く疎いのですが、『マタイ受難曲』は昔からずっと欲しいと思っていました。もちろん演奏者によって曲が全く違って聞こえることすら知りませんでした。この間メンゲルベルグ版を購入するにあたって、一応軽くサーチをかけたところ、「初心者的にはリヒター版がオーソドックスでいい」とか「メンゲルベルグはバッハをわかってない(感情的すぎるらしい)」とかますますわけわからん迷宮にはまりこんだのですが、ま、要は好みなわけですよね。
私がいかにも初心者らしく、ピアソラ本人のピアソラよりもクレーメル版ピアソラの方が好きだとか、そういう。

メンゲルベルグがいい、という情報を私にインプットしたのは、学生時代に同窓生だったとあるクリスチャンの院生でした。私はそいつのことが本当に嫌いで、彼がたまたま大嫌いなルーテル派に属していたばっかりに陰で「ルーテル野郎」とか呼んでいました。ちなみにルーテル派が嫌いなのは、単に私がマルティン・ルターが巨大ハムみたいな癖に言っていることはアホ臭く感じたので大嫌いだったからで、ルーテル野郎が嫌いなのは、ゼミ生連中で道々「イエスは貧しい人や虐げられた人にこそ目を向けていた」とか何とか話していたまさに最中(確かそいつが一番熱弁を振るっていた)、そいつが「最近ああいう連中が多くて、この街も汚くなったよね」と堅気そうだけどあんまり金持ってなさそうな中東系の集団を見かけて言ったというエピソードがあったからです。
そういう人たちこそ、ゼミ生たちがその時話ていた人々に当たるんじゃないかと、当時の私は思ったし、その時からしたり顔をしたルーテル野郎は「超偽善者ルーテル野郎」と長い名前になりました。


学問の場から離れても、私はよくイエスのことを想います。

私の信じる一番フレッシュなイエス文献は、最古の福音書である『マルコ福音書』になります。
学生時代には、色々な情報の中でもみくちゃにされただけの印象しかなく、各研究者の立場によって、イエスは革命家であったり「イエス運動」という民衆運動の単なる象徴的な記号でしかなかったりして、私はかえって私のイエスを見失ってしまいました。きちんとした言葉で言えば、何を研究テーマに置きたかったのかがわからなくなってしまったのでした。周囲は牧師研修のキャリアのための研究だったり、研究者の卵としての明確なビジョンに基づいて敷いたレール上を順調に走っていたのですが、思えば私は研究の手段としてイエスを選んだわけではなく、『マルコ』で一目惚れ(?)したイエスを追ってその大学まで辿り着いただけだったのでした。
冷静に考えれば、路頭に迷うのは当然のことです。
私のしていたことは、要は学問ではなく片思いだったのですから(笑)。
生身のイエス像を納得行くまで追い詰めたい、なんて動機は、あんな古くちっぽけな資料だけを基にしたって、学問的なアプローチからは叶うはずもないのです。

私がイエスに追い付けるとしたら、それは学問なんて手段でも信仰なんてまやかしでもない。

考え過ぎてノイローゼになりかけてようやくそれに気付いた時、私は学校を辞めました。
そして、学問の場を離れて浮かぶイエス像は、やっぱり最初に『マルコ』を読んだ時の、活きがよくてユーモラスで、頭の回転は速いくせにかなり短絡的に怒りっぽいところが可愛らしいイエス像です。彼の言葉や生き方に嘘は無いから、信じることができる愛すべき人間であるイエスです。それ以上の姿はまだ浮かびません。私は多分、一生をかけて彼の姿を追い続けるのだろうし、彼を信じる以上、仏教徒ではあり得ません。でも、彼だけが処女受胎によって産まれた神の子であり神であるといったように、彼を盲目的に神聖視をすることもできないので、厳密にはキリスト教徒ですらないのかもしれません。だいたい教会嫌いだし。

それはともかく。
メンゲルベルグ版の『マタイ』には、私の大好きなアリア第39曲「憐れみ給え、わが神よ」が(当たり前ですが)入っていて、これは私の最愛の映画監督、タルコフスキーの遺作『サクリファイス』のテーマとしても使われていた曲なのです(『サクリファイス』で使われていたのは別の指揮者の演奏のものだったと思いますが)。曲を聞くと、あの映画の光景と、そしてその光景に対してほとんど自動的に感じる感情までオーバーラップしてしまうので、泣き効果はそれはもう絶大なのですよ。
世界の傷みを少しでも癒すためには、何を犠牲にすればいいんだろう。
イエスの生と死は、世界の傷みを少しでも癒せたんだろうか。
恥ずかしながらそんなふうに、むしろ映画寄りに気持ちが傾いてしまうわけです。

ま、原曲のシーンそのものは、3度イエスを否定した直後のペテロの懺悔だというのがかなり嫌ですが。
(私はペテロがかなり嫌いです。悲壮な気持ちでエルサレムへ赴くイエスに向かって「エルサレムに着いたら自分は玉座の脇に座れるっすね」とか何の疑いも無く言ってのけたペテロの俗物ぶりと無神経さには、本気で氏ねと思いました。だいたい3度も彼を否定してその後泣くくらいなら、最初からついて来なければよかったのに。だから蛇足ですが、遠藤周作の使徒観には全く共感できません。)
ペテロの嘆きはペテロ自身の自己憐憫や自己嫌悪でしかなかったんじゃないかと、私などは冷ややかに切って捨ててしまうのですが、この曲そのものや映画『サクリファイス』の嘆きは、もっと大きく、自己という枠を超えたところにあると思います。


今の私は学生時代に持っていた僅かな無垢さすら失って、日本に働く他国人の意味を考えずにはいられないし、『ルカ』や教会が教えるような慈愛だけのイエス像には疑問しか感じません。「イエスは貧しい人や虐げられた人にこそ目を向けていた」ってことを殊更主張しているのは、在家信徒用教本である『ルカ』だしね。
でも、それを本当に信じ主張するならば、非白人の外国人に侮蔑の目を向けるルーテル野郎はやっぱり偽善者だと思うし、どんなに日本という国の立場上まずい局面があるとしても、ルーテル野郎は全ての「貧しく虐げられた者」に等しく慈愛の目を向けなければ嘘だと思うのです。

でも、メンゲルブルグを教えてくれたことについては、素直に言います。
ルーテル野郎よ、教えてくれてありがとう。
そういえば奴は福田元官房長官に面影が似ていたな、とかふと思い出しつつ、そんなことを思ってみるのでした。

ちなみに福田元官房長官はかなり長いこと私の中で流行っていたので、姿を見ることが少なくなって、ちょっと寂しいです。


★追記12/21
とうとうどこ歩いててもクリスマスソングが流れる季節になってしまいましたが、私にとってはイエス(片思い)を想う大事な一日なので、世間様的にハッピーな気持ちにはなかなかなれません。ま、そういう意味では彼が処刑された日っていう記念日もあるわけですが。

そういう意味ではクリスマス=彼の誕生日説自体が怪しいので、そうこだわる必要もない気もするのですが、ともかく大好きな彼が一応この世に生を享けた日ということで、普段はぎすって見える世の中に対して、できるだけ優しい気持ちでいたいなあと思う日ではあります。クリスマスってほんとはそういうものでしょ?
そんな意味では、たとえペテロの馬鹿が泣き崩れている曲であろうと、アリア39は動機や立場は違えど、今日までの間に多くのクリスチャン達のイエスを想う気持ちの集積体となっていると思うし、私の中でもやっぱり大事なクリスマスソングです。
あと合わせ技で、別の日に夢見がちな記事で紹介した、トム・ウェイツの「Innocent When You Dream」とかそんな感じ。



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