…それはともかく、先日私の記事に「うんこ」と名乗る人物が「お前なんかうんこだ」というコメントを寄せて来た。まあ普通に考えれば単なる荒らしだし、「こんな弱小サイトを荒らしてどうする」とか思ったのだが、よく考えてみたらとても深いコメントだと思う。
だって、「うんこ」氏が他人を「うんこ」呼ばわりする。これは、「きみも僕と同じうんこさ〜」という激しい共感を示した一方的な同類表明なのかもしれず、それをこの短いセンテンスの中に過不足なく表現した熱いラブコールなのかもしれない(ありえない)。まずその前に、自らを「うんこ」と名乗るこの人物にとって「うんこ」がいかなる意味を持っているのかが明らかにならなければ、このコメントの真意は理解できないのだ。
(「うんこ」氏には、ご自身についてのうんこの意義について、ぜひとも教えて頂きたい)
ちなみにこの「うんこ」氏だが、先日私が禿しくトラックミスをした切込隊長の記事に始終「うんこ」のコテハンで自らのうんこ日記をコメントしている人物と同一じゃないかと思う。なぜなら「うんこ」氏がコメントを残した私の記事は、まさにそのトラックミスをやらかしたハゲ考察記事だったからだ。
私は別に隊長マンセー派でも隊長の毛髪にハァハァしているわけでもないが、隊長の文章は本当に面白いから好きだし、それだけでも隊長がいかなる人物かに関わらず、サイトが賑わうだろうことは心底納得できる。しかも何といっても、「うんこ」「ハゲ」という人類二大テーマを追究する先達なのだ。敬意を払わずにいられようか。
そこで登場するのが「うんこ」氏の存在だ。
どんな内容の記事でも構わずに一貫して「うんこ」を名乗ってうんこ日記をコメントする「うんこ」氏。ここから先は他愛のない迷信の域に入るのだが、こんなことをふと思ったものだ。
もしかしたら氏はサイトにおける座敷童子のような存在で、氏がトイレにこびりついたうんこのようなコメントを残し常駐しているサイトには、祝福と繁栄がもたらされているとしたら。
「うんこ」よ、遠慮は無用だ。私のところにも住みついて、思う存分うんこ日記でも何でも書き散らしてくれや(笑)。
「うんこ」。このたかだか3文字の短い音で構成された言葉の味わいはとても深い。日常的には非常に軽視されているどころか、むしろ存在しないがごとく見て見ぬふりをされている可哀想な単語なのだが、それが実際に意味する物は、私たちとは切っても切り離せない存在だ。
日常に生きる私たちは誰もがうんこをする。オヤジは当然うんこをするが、すごい美少女や美少年だってうんこをする。ちなみに「美少年はトイレに行かないのよ!」というのは『パタリロ』あたりでよく使われていた、まあオーソドックスな腐女子認識らしいが、私としては、あるキャラクターと「うんこをする日常的風景」とが頭の中で結びついて初めて、そのキャラクターが自分の中で生命を持ちはじめる癖がある。それは自分の作品でも同様だ。
まずはうんこ。何を置いてもとりあえずうんこと食生活。基本だ。
私は別にスカトロマニアではないので、そのキャラクターが実際に排泄行為をしている光景を想像しているわけではないんだけども(そんなのはペドの宮崎駿だけで沢山だし)。単に、たとえば「ああ、こいつは食生活が不規則そうだからうんこもさぞかし硬いことだろう。しかもいつもリキんでるから、もしかしたら切れ痔に悩んでいるかもしれない…」とか思う程度だ。二次元と現実を混同するなとか言われそうだが、ま、オタクの私にとっては、二次元においてもうんこは重大な問題なのだ。だって重大でしょ?
…え、普通そんなこと想像しませんかそうですか。
どうせ私はよく「食事中にその単語を口にしてはいけません!」と怒られてる人間ですよ。悪かったわね。
ともかく、それだけ軽視されていながら、ざっと考えても「うんこ」「ウンチ」「糞」「便」「でかい方の排泄物」と多様なバリエーションの語彙を持っているというのは、うんこがいかに私たちと切っても切り離せない関係にあるかという証明なのだと思う。咄嗟に具体的な例が何も思い付かなくて恐縮だけど、「ある事物に対する語彙の量がいかにその言葉の使われている環境や文化スタイルに拠っているか」ということは、現語学的にも散々論じられてきたテーマだしね。ともかく、少なくとも日本人的にはうんこはとても大きくて身近な存在なのだ、ということは、それだけでもわかるというものだ。
さて、禿しく話が逸れまくったが、そもそも語りたかったのは、あの熱く人々を沸かせた 「男女の差なく、人はうんこ前にも手を洗うべきである」 についての更なる考察だ。この優れたうんこ考察に何かを付け足すのは、それだけで蛇足かとは思う。しかし、日々うんこについて考える身として、この文章がうんこ考察の更なる発展へのささやかな一助となれば幸いである、と思った次第だ。
基本的に不潔である私たちが「絶対的な不潔」であるうんこをするに当たって最大限清潔を保つにはどうしたらよいのか?
そこでは、「うんこ後の手洗い」という基本的な行為を含め、拭き切れなかったうんこ成分に至るまで、血の滲むような議論が展開されているのだが、最終的には「うんこ以外の不潔はトイレ中に存在するか?」→「もし風呂に入るとき一番重視して清潔にする場所はどこなのか」=「人体での清潔において最も優先度が高い箇所はどこなのか?」という逆の課程からのアプローチを試みるに至っている。
結果、それは「ちんこ」であると。
その最も清潔で然るべき「ちんこ」を使用し小便をする場合に「生活で雑菌の巣 になっているはずの素手で行われるのが普通」である以上、行為前に既に汚れてしまっているというジレンマが存在し、そのジレンマは行為前に雑菌の巣に汚染されるという点においては、大小便の別を問わず等しいと。その結果、タイトルでもある画期的な結論に到達するわけだが、ここで「議論の突破口となったものが男性器である以上、女性の場合はどうなのか?」などと問う野暮は犯すまい。問題は、「不潔を体内から排出する際に、生活における雑菌という不潔に接触するリスクを避けられない」という点であって、人体の形態の差異なんかではないからだ。
(ちなみに、風呂で「ちんこ」をより念入りに洗うのは、最も清潔に保とうというよりは、その箇所が最も不潔な状態になっていると考えての行為ではないかと私は思うのだが、それこそが性別の差の限界なのだろうか?)
うんこは不潔だ。
実際、飲尿はある意味健康法に使えないでもないらしいが、食糞は人体に致命的なダメージを与えるそうだ。その手の趣味を持っている人と一般人との差は、歯科医にとって一目瞭然らしい。うんこ成分が歯のエナメル質に深刻なダメージを与えるのだそうだ。人体はそれほどの有毒物質たり得るものを一度は食物として体内に取り込み、それを取捨し、不要物を凝縮・成分変化をさせ、「うんこ」として体外に排出しているのだなあ、という感慨がある。
恐るべしうんこパワーだ。何より、恐るべし原田知世だ。
「うんこ前後に手を洗うべし」といういささかユーモラスですらある結論には、実践こそしていないものの、基本的には特に反対の意は持たない。しかし、そのような強烈な不潔に対して、「生活の雑菌」はどれほどの威力を持つのだろうか?
世界は雑菌に満ちた不潔な場所だ。その雑菌の中で作られ、おそらく雑菌を含んでいるであろう食物を摂取している私たちは、もとより不潔なのだ。その中では、「うんこ」とは中でもスペシャル級の不潔として、ただ不潔の象徴でしかない。
隊長たちの夜更けのうんこ議論の場では、「もし私たちが清潔な存在で、うんこを拭ききり手を洗浄するに足る人物であるなら、もう少しマシな人生を送っていてもおかしくない」という意見が出たという。
私たちがうんこ前後に手洗いさえすれば完全な清潔を保てるような存在であるなら、このような意見はもとより出て来なかったに違いない(実際に彼らの出した共通の結論は、「私たちは一連の行為において最大限の清潔を獲得できるかもしれない」という、不完全な清潔への希望に過ぎない)。これはもはや、うんこを巡る清潔さに留まる議論ではない。「もとより不完全な私たちが、いかにしてより現状よりましな状態を獲得できるか」という議論でもある。
私たちは雑菌の中で生まれ、そして死ぬ。より醜悪かつ不潔な要素はもちろん外界からもやって来るが、私たち自身の中からも確実に排出されるものであり、そうして私たちは時に最大限の完全さを目指しながら、やっとのことで生きているのだ。
議論という行為は、言葉によって自らや相手を傷つけながら(言葉に不慣れな人間にとっては、それはより凶器そのものだろう)、何とか相互理解に向けて努力する行為だ。いわば、各自の不完全さによる偏りによる意見の相違という毒素(それが不完全さによる毒素ならば)を排出する行為だ。議論とはうんこ行為だったのだ。
そして「行為前後の手洗い」に当たるだろう「相互理解のための努力」が結実するならば、やがて快便後の満足感に似た相互理解に到達することだろう。単なる毒素の排出が、「相互の生活習慣の違いという超えがたい壁を乗り越え」る、はるかにマシな行為に生まれ変わり得るのだ。
私たち誰しもが、もとより不潔な存在なのだと認め合えるならば。
さて、うんこ行為は実りある行為になり得る、という点まで話を進めて来たのだが、実は私はこれをうんこ、いや、とあるウンチ↓から教えられた。

『サウスパーク』に登場する知的なウンチ、Mr.ハンキーだ。
彼は、「自分がただのウンチで生きる意味がわからない」と悩む息子(ウンチ)に語り、歌う。
「生き物すべてウンチするー
それで命の輪がつながるがるのさぁ
緑の草と空を飛ぶ鳥 ウンチがあるからこそ生きるのさ
草を食べる牛 牛を食べる人 身体を通ってウンチになる
ウンチは下水を通り 海へ流れ プランクトンが食べて魚の餌に
それをでっかい魚が食べ 川にのぼったらまた食われて
熊が痩せた土地にウンチして 新しい命を芽生えさせ〜る〜
アンテロープのウンチ キリンのウンチ
大地に落ちて草を生やす
草は牛が食べまたウンチになる 人が牛を食べまたウンチになる
(台詞)
「わかったかい?おまえは関係なくなんかない!お前こそ命だ!」
「でもどうして僕がキリンや草や人間になれるの?そんな実感ないけど」
「感じない時も心臓はちゃんと脈打ってるだろ?それと同じことさ。何もしなくてもお前はちゃんとキリンや人間の一部なんだよ。全ては一つの命。全てはお前なんだ。」
「なんかわかった気がする!」
アンテロープのウンチ キリンのウンチ
大地に落ちて(イエ〜〜エ)草を生やす
僕は豹の足 鳥の翼 人の食事となりまたウンチになる〜(ン〜〜ンン)
それが命 ウンチのアァァァ〜〜〜〜」(Episode417)
そう。あの果てしなく思えた議論の中、男たちを相互理解で結び付けたものがウンチだったように、不潔な私たちが排出した究極の毒素であるはずのウンチこそが大地を肥やし、命を養う源となっているのだ。
ウンチこそが命なのだ。
だから私たちも、マシな人生を送るために、ウンチを排出しながらも日々を必死で生きているが、そうして生きている行為そのものが次代の命となるのだ。だったら私たちの努力も、そう悪いものではないのだろう。
だから、それを教えてくれたMr.ハンキーに敬意を込めて、私はうんこをあえてウンチと呼ぶ。
実際、「うんこ」というと、少しばかり繊維が多く水気が足りなくて、硬かったり切れが悪かったりする印象がある。それに対してウンチというと、瑞々しく切れの良さも抜群の、快便の満足感を味わえる極上の品質のイメージがないだろうか?
だからこそ思う。
最近、どこか生き急いでいる印象が濃厚に漂うものの、日常的には身体と頭髪の健康を気にする30代かと思われる隊長には、水分不足でぱさついた印象の「うんこ」表記よりも、むしろ適度な水分量を保ち、痔対策にも万全と思われる「ウンチ」表記こそをお薦めしたい。
というわけで今更感が禿しく漂うんだけど。実際のところ、記事の主旨が「うんこ」だったのか「議論の有益性について」だったのかの真意はよくわからないままなのだけど、大の大人が4人集まり互いの身を削りあいながらうんこ議論をする光景と、実際非常に有意義なうんこ議論に敬意を表して、今さら記念トラック。



何と言うか・・・非っ常〜にコメントしずらいエセイと思うと同時に、それにコメント付ける俺も俺だと思ってます。
まあ「うんこ論」に関してはともかく、考えさせられたのは『〜不完全な清潔への希望〜』のあたりで、ふと疑問に思ったのが、
何故に人は指先を切った時、ほぼ反射的に口に含むのだろうか?
と言うことで、冷静に考えれば雑菌の塊である唾液に傷口を浸すということは、かなり不潔な行為なわけで。
まあ、「〜そんなもん、ツバ付けときゃ治る〜」なんてのは昔からよく言われたことなので、所詮人間の知恵なんてその程度のものか、とも思うし。
さらに話を進めると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と思ったが、セクハラと言われそうなので自粛しときます。
ま、病気には気を付けましょう、ってことで(笑
大事なテーマなのになー。
確か唾液には血液を凝固させる物質が…とかそういうマジレスはどうでもいいとして。
伏せ字の部分にしろ何にしろ、人間自体がそもそも雑菌のかたまりだったりするわけで、私たちは都合のいい時だけ清潔不潔を分けたがるんじゃないか、という気もします。子供も適度に雑菌の中で育てないと、かえって免疫力が落ちるらしいですし。なので、適当でいいんですよきっと。何しろ世界は一つ、誰もがウンチの輪の中にいるんですから。
ただしエボラとか、レベルいくつか以上の強力な細菌についてはあんまり同居したくないですよね★(巧妙に清純派を装ってるつもりのレスで)