2006年02月17日

「聖書学はそもそも誰のためのものか」つうすげー基本的なお話

つうか人が珍しくそこそこ真面目に文章書こうと思ってた昨日に限ってずっとseesaaメンテ中だったな。

いやね、わたしのアイドル、オヤジポエマー様の昨日の日記が相変わらず飛ばしまくっててえろう面白くて、私も久々に文学少女気分盛り上がりまくりだったので、seesaaメンテにはマジ苛ついておりました。

やーもー「25歳で私は死んだ」とか『愛人』のオビみたいなことを衒いもなく仰ったり、かと思えば本家のブログの方では私のコメントだけ華麗にスルーなツンデレぶりで私の心を虜にしたり、「もーいいかげんにしてよそこらの佐藤浩一(唇厚くてキモい)まで青二才に見えてくる程強烈なリリカルオヤジフェロモン出しまくるの!」とか言いたくなります。

つか聖書学の話だったっけ。聖書学。.
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いや私なんぞは所詮中途リタイアしたつうか、あまりのジャンル内少数派ゆえいたたまれなくなったんで「漫画家になりまつ!」言うて(教授を禿しく怒らせつつ)大学飛び出した身なので、その後の聖書学の流行なんかにはマジ疎い、素人に毛が生えたようなもんなのですが。
そんな身の私が聖書学なんぞを話題にすること自体おこがましいなあと思って、学問的な話は避けまくってたのですが。いやそもそも記憶容量が小さくて殆ど覚えてないし。


ええと、そもそも私が聖書学に興味を持ったのは、福音書が4つもあってそのうちの3つは殆ど内容が似てて効率が悪いのは何故か、つうこととか、そういえば厨房時代に教会に逝ったら、説教に使われる箇所はいちいち恣意的だったなーとか、『最後の誘惑』つうイエス映画の前半のお行儀の悪いイエスに惚れたとかいろんな動機があるのですが。

学部時代、私は某大学の哲学科にいたのですが、その大学の哲学科は本当に哲学科だったのですよ。んで、「何がそのジャンルの主流なのか」ではなく、「何がどんなふうに自分の中で大問題か」を考えさせてくれる場だったのですよ。で、どのゼミ取ってもそれなりに禅問答みたいな討論に参加する羽目になり、自分にとって必要な問いがあった人はそれを見つけ、その問いを更に問うていく迷宮にはまっていくわけですが、反面遊びたい人にとっては、大学院とかは天国のような場所でした。だって問いを巡って模索しているふりさえしてれば、いつまでもモラトリアム続けてられるからね。だから当たり前ですが、日本の思想史関連の学会では非常に権威も何も無い大学でした笑(でも一応庇っておくと、そこはすごい原典主義で、「原書に当たれないような香具師は討論に参加する資格無し」ってとこは徹底してました)。
その後、当時の指導教授の親心で「聖書学でやっていくなら専門の院に行きなさい」と追い出され、キリスト教系の大学院に入り直したのですが、最終的に私にとどめを刺したのが、まさにその「問い」の持ち方でした。

・私の出身校では、「問い」は思考する度に深まるか角度や位相が変わるのは当然のことだった。だから、論文を書くにあたり、最後まで一番必要で厳しく問われるのは、「問い」がいかにシャープに磨かれ、それに対して誠実に向き合ったか、ということだった。

・しかし次に行った某大学神学科では、「問い」なんぞは大学院入りする前に決めておくのが当たり前で、ブレが許されるとしたら、精々ジャンル内流行の移行による関心の移行くらいだった。要求される作業は、対象と向き合って問いを問うことではなく、あらかじめ想定された解答を証明するための問いの立て方であって、後は実際にその証明作業をするのが論文執筆という作業だった。


後で同じ哲学科出身の先輩兼友人に聞いたところ、「要は私の出身校/出身学科の姿勢が特殊なのであって、他所に触れた時にはたいてい最初は戸惑ってる人大多数」とのことでしたが、当時の私は非常に馬鹿正直で空気読みが今より下手くそだったので、その違いで戸惑ってノイローゼに陥り、とうとう上記の「漫画家になるからいいもん」リタイア発言が出たのでした。
いや、非常に心が弱すぎるなあと呆れますよ我ながら。

いや何で漫画家になるもん発言が出たかというと、ノイローゼ中の思考なりに

・2個目の神学科の方法論はそれはそれで正しい(というか主に学者という職業人を育成するにあたって非常に正しい)。個人的には嫌いだけど。
        ↓
・自分が追いかけていたものは、つまるところ信仰と政治学の彼方へと逝ってしまって、その実態も実在もわかんねえ「イエスっち」という物語であって、それははっきり言って学問でも聖書学でもない。
        ↓
「その問いを追究していくにはここは狭すぎる」と思った笑(単に同期のゼミ生たちと授業の後喋っていて「イエスは怒りっぽくて可愛い」と言っただけですごい説教され、クリスチャンの怖さを思い知っただけ)
        ↓
更に、学者には欠かせない「記憶」部分の容量が極度に小さいというハンディがあって、マジ学者には向いてないという現実的側面も。
        ↓
だからってどうして「漫画家になるもん」なのかは自分でもわかりません。



そんな感じで、私の研究生活は人間の寿命的に手後れになる前に幕を閉じたわけですが。

今はどうかは知りませんが、私のいた頃は、日本における聖書学会員のほぼ全員がクリスチャンでした。学内でも、新約学で非クリスチャンなのは私一人でした。信仰と学問は切り離して存在していると誰もが言っていたけど、誰もがケリュグマのイエスと三位一体論は信仰しておりました。

んで、西洋哲学史をざっと見渡した後、新約学史を見渡す限り、私にはなんか凄く単純な結論が出た気がしたのでした。
つまり、聖書学とは、キリスト教がそこそこ整備されたあたりから始まり中世神学を経て近代〜今日に至るまでの、「だから神はいるもん!」という血を吐くような必死の主張を、古代ギリシャ哲学の弁証法を利用し、一見理性的かつ合理的に整えた証明活動だったのだと。
そもそもプラトンあたりの著作を読むだに、弁証法の怪しさというか、足許の脆弱さは覆い隠せないものがあって、確かに数学とかの公式の証明とかに使うならまあいいんだろうけど、思想とか宗教といった非常に抽象的かつ物質じゃないものに関しては非常に無理がある方法論だと思ってたんですよね。

だって簡単に言うと、「もし本当に神がいるとしたら」という仮定の上にいろいろ証明事項を積み重ね、「だから神はマジで存在する」という規定の結論に達し、仮定は証明されたことになると。

…それって客観的かつ理性的な「学問」と言えるんだろうか?

ブルトマンにしろトロクメにしろ日本人学者の有名どころにしろ、そしてその時々の流行りに関わらず、その辺の方法論というか動機はほんとうにブレが無い。違うように見えるのは、各自違うベクトルを用いているからってだけだ。

いわゆる「史的イエス」が古臭いものとなり、「ケリュグマのイエス」も目新しさがなくなり、社会学的アプローチが流行ってくるようになれば、確かに「ナザレのイエス」という個体は一見問題じゃなくなる(つうかまだ流行ってるとは思ってなかった笑)。

でも、焦点はやっぱ、「社会学的に見た当時の一ローマ植民地において、何故『イエス運動』なるものが発生したか、そしてローマ帝国の国教にまで成り上がったか」に向かうわけで、どんな結論が出ようと信仰を損ねるものではない。(←ここ重要)
そしてなんといっても、今までにないほど客観的かつ理性的な手法なので、たいへんクールな学問に見える笑。
思えばそれまでの「史的イエス」だの「ケリュグマのイエス」だのは、「イエスがどういう人物だったか」という非常に文学的なというか感情的なアプローチだったので、はっきりとクリスチャンにしか必用の無い学問であることを示してしまう。
でも社会学的アプローチなら、紀元前1c〜紀元1c頃のユダヤ地域研究のふりができ、より理性的学問の体裁が整う。


とはいえ。
確かに私も社会学的なアプローチって面白いって思ったんだけどさ。
「中核の具体的な人物の有無に関わらず、ローマ占領下当時のユダヤの中で起きた『イエス運動』がやがて人種を超えたムーブメントに」→「その動きそのものが神のなせる業(うっとり)」とか言われてしまっては、もう対話不能ですよ(実体験)。

ま、神学だしね、と考えれば答えは簡単で、要はどんなに現代人的ドライさにフィットするよう、アプローチの仕方は変われど、聖書学は神学であり、神学である以上はクリスチャンによるクリスチャンの存在証明のためのものである、というのが私の思った結論でした。

思うに、それを頑張って理性だ何だと覆いをかけるから話がややこしくなったり、私のような勘違い門外漢が紛れ込んだりするわけで、ユダヤやイスラムのように「神学は神学」というスタンスをはっきりさせておいた方がずっとシンプルだと思うわけです。

そうすれば門外漢も、内部研究の成果を参照しつつ門外漢なりの研究とか関心の持ち方とかができるわけで、摩擦も少なくて済む気がするし。


イエスファンでリタイア組の私が言うのも何だけど、聖書学=理性と言い張るあたり、「キリスト教は世界遍く伝え広めるべき真実の神の言葉」とかいって布教してた西洋キリスト教の傲慢さの名残りのような気がしてならないというか、その必死だな加減がかえって可愛いような気がしたりとか、そんな感じがするですよ。


そんなこんなでオヤジポエマーさんのエントリも必死で愛らしかったのですが、そこからムスリム移民社会の現状を読み解こうと思うのってちょっと無理がある気がするですよ。
ま、記憶容量が殆ど無くて、感性でしか物を語れないリタイア人間なんぞが言ってもあんま意味なしだと思うんですが。


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