2004年12月30日

人が「キリスト」になるまで〜『最後の誘惑』(映画)〜

今更1988年作『最後の誘惑』レビュー。
監督/マーチン・スコセッシ
キャスト/イエス:ウィレム・デフォー、ユダ:ハーヴェイ・カイテル、マグダラ:バーバラ・ハーシー、ピラト:デヴィッド・ボウイ(…)
原作/ニコス・カザンザキス『キリスト最後のこころみ』.
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まあ私の動機なんて物凄く単純で、ベトナム戦争映画の『プラトーン』がやたら名作扱いされてることに反発を覚えて観てみたところ、エリアス役のウィレム・デフォーのかっこよさに簡単に転び、以降デフォーの出てる映画を観漁ってたらこの映画に行きついた、それだけの話なんだけど。

ま、ついでに言えば、『プラトーン』自体は後から思うと戦争映画としてはアフォかと言いたくなるような単なるキャラ萌え系善悪二元論的映画で、言ってしまえばデフォーのかっこよさくらいしか見どころはないのだけど(役どころがかっこいいんじゃありません。デフォー本体がかっこいいんです)。前から凝り性だった私は、映画観る前に小説(ノベライズだよね)を見つけだしてきて、その内容(多少それぞれのキャラクターの内面が掘り下げられていた気がする…)を脳内で映画に付け足して、「戦争は単なる殺し合いだし、自分はもうここでしか生きられないキチガイだけど、生まれ変わったら鹿になりたい(←ここが泣かせる)」とか内省的に主人公に語るエリアスとか、それでもその中で出来うる限りの善を探していたエリアスとかを勝手に脳内で映像補完してたな。そんでさらに夢見がちになって、エリアスの中にイエスを見たりとかしてた覚えがあります。それが彼の死を招いてしまったのだとかそういう感じで。その頃は福音書の区別も付かなかった頃だったし、イエスなんか重要な人物じゃなかったのにね。運命といえば運命のような気もするけど、夢見がち過ぎるよね(笑)。笑ってやって下さい。


『最後の誘惑』は、予告どおり(笑)日付けをまたいでさっきまで(この書評の前半部は12/26に書いていました)観ていたのだけど。
すいません。
日記で書いた文章はちょっと早計でした。
『マルコ』のイエスはもっともっとやんちゃです。
登場した時には、すでに洗礼者ヨハネのもとに洗礼を受けにやって来るイエスです。どういう家系の生まれかとか(マタイ)、処女懐胎だとか(マタイ・ルカ)、そんなことは一切書かれてません。
どうでもいいことですが、在家用テクストの(つまりローマ支配下での民だったギリシャ人はじめ、ユダヤ人以外の異邦人も対象に含んでいる)ルカがまずは奇跡的な生まれの逸話を強調しているのに比べ、出家用(熱心なユダヤ人出家信者対象ということです)テクストのマタイが奇跡的な生まれと由緒正しい家系の両方をアピールしているのは面白いですよね。…え、あんま面白くないですか?


ともかく、『マルコ』のイエスは端から預言者としての暴れん坊イエスなんですよ。とりあえず語る。無理解な奴や空気読めない奴が聴衆に混じってると激しく怒る。弟子がうっとおしくなる時が多いらしく、夜になるとたいがい一人で引き蘢る。昼は昼でアホな弟子を激しく叱る。たまに突然お茶目な行動を取って人をぎょっとさせる。腹が減ってる時にたまたま見つけた木に実がついてないとその木を呪って枯らす。
それで案外センチメンタルで、タイーホ直前やっぱり不安になって激しく落ち込む。ひとしきり落ち込んだ後、ついて来させた弟子が居眠りをしていたといって詰る。しかもジョジョキャラのように「お前は次に私のことを3回否定する」とか予言をして弟子を詰る。かーわーいーいー(よね?)。


カザンザキスの原作は、福音書を下敷きにしながらも、どの福音書が主としてのベースなのかわからない程解釈を大きく逸脱しています。それを元にしたこの映画も、もちろん同じく大きく逸脱しています。
それは、イエスが(奇跡は起こし神から選ばれた存在ではあっても)あくまで人間だったという点。そして、彼が神から選ばれてしまった自分の運命となすべき役割を受け入れるまでの葛藤の物語であるという点です。

Amazonの書評とかでは、やたらとイエスの性欲の悩みについて大きく触れていますし、実際、イエスが「普通の生活=女と暮し、性交をし、家庭を築く」ことに激しく憧れていて、「もし十字架から逃れてそんな生き方をしていたら」というifの部分が公開当時大問題になったらしいですが、本質的な問題はそこにはないと思います。

「わざと汚れた職業に就いて(神から選ばれたという)資格剥奪を狙ってみる」「隠遁生活を送る修行僧を目指す」「どうせなら革命家として暴れることで、十字架よりは一撃死したい」等々、十字架への道を選び取る(取らされる)までのイエスはおよそいろいろなことを試みます。
その試みは、子供の頃から続いた「統失ですか?」で済まされるような神からのメッセージ、激しい頭痛や癲癇、十字架のイメージに悩まされ、自らが(神に仕えるという意味で)選ばれてしまった存在であること、「普通の男としての平凡で幸福な人生」=「マグダラとの恋愛」を諦めざるを得なかった(ちなみに彼女はその絶望から売春婦に身を落とした設定になっている)ことに悩み続け、自らに課せられた役割について試行錯誤し、模索する過程でもあります。


だからこの映画でのイエスは、磔になるまでの半生の殆どが私たちのお馴染みのイエスではなく、自分の使命と本来望んだ生き方との間で悩み、自分の活動そのものにも悩みながら模索を続けるイエスです。私が「自分の中で、『マルコ』のイエスの原イメージになっている気がする」と語ったイエスは、自らを神に選ばれた存在だと受け入れ、「救済=人の魂の在り方を変える」救世主なのだということを受け入れた後のイエスです。

有名な砂漠での試練の後、イエスは幽鬼のように弟子の前に姿をあらわします。そこで自らの心臓を取り出し、自分が預言されていた救世主であることを語るのですが、それは最初の奇跡の発現というよりも、(本人もまだ知らなかった)生け贄のイメージをすでに示していたように私には思えます。ちなみに「奇跡描写が派手すぎる」というレビューも見かけましたが、映画という媒体がエンターテイメントという一面を持っている以上は避けられない宿命なのかと思いますし、奇跡描写はこの映画にとってはそれ程重大な問題ではないと思っています。
「狂人=預言者=聖者=(ある種の)奇跡」というのは、旧約からその後のイスラムの「預言者」のイメージにも連綿と続く、預言者が預言者たるべき資格のようなイメージですし、前半にイエスが受ける神からのメッセージ(てんかん含め)も、そうした「預言者の資格」としての描写だと思っています。
ま、映画自体がまず、福音書本体を知っていることを前提に作られているような端折りをしている割には構成が漫然としている部分が多すぎる映画だと思っているので、スコセッシの監督としての技量というかセンスにいまいち疑いを抱くし、「他の監督だったらどう纏めたんだろう?」と思ってしまうのですが。


私が憧れた『マルコ』のイエスの原型ともいえる、自らを「救世主」と自認した後のイエスですが、それまでの迷いに満ちた自信無さげな表情を捨て、野生を感じさせる生き生きとした目で人々に語り、奇跡を起こし、身体中で怒り、時に歌い踊ります。「イエスは笑ったか?」という非常に下らない議論が中世ヨーロッパのクリスチャンの間ではさかんに行われていたようですが、私にとっては「預言者」でありながらなおかつデフォーが演じたような人間臭いイエスこそが実際のイエスだったのだと思っています。そして、この映画の主題もまさにそこにあると思うのです。

大好きなものを語ろうとすると、つい文章がループしてしまうのですが(笑)、この映画で度々語られる「神の子」というものは、実はイエスが語りかけた人々全てのことを指しているのだと思うのです。映画ではだいぶ端折られていますし、一般的な知識でもありませんが、当時のユダヤ教は一枚岩ではありませんでした。ローマ支配下にあって、上手く折り合いをつけながら生き延びていこうとする一派、あくまで厳しい戒律を守り、ユダヤ主義を貫こうとする一派、俗世を捨て隠遁の中に信仰を全うしようとする一派、そして具体的な改革=革命を唱える一派など、様々な立場が入り乱れておりました。現代のキリスト教学上、イエスがどの宗派の位置付けにいたのかは、やはり議論の最中にあるようですが(といっても自分のリタイア後のことはよく知らないので、滅多なことは言えないですが)、少なくとも彼は「律法学者」に議論勝ちできる程度に律法の心得がある教養を持っていた人物だったこと、洗礼者ヨハネが「イエスの前に道を整える人物」として無視できない存在であることから、エッセネ派と呼ばれる宗教集団と何らかの関わりがあった人物だったことは考えられます(ちなみに革命思想を要素として持っていた集団だったようです)。
ともかく、そのような集団にはそれぞれの立場があり、存在意義もあるのですが、どれも一長一短な存在ではありました。逆にいうと、イエスはどの集団にもぴったりとそぐうことのない人物だったのかと思います。

彼らにとって、立場は違えど「神」と「人」とはけして触れ合うことのないかけ離れた存在でした。「いずれやってくる救世主」もまた、彼らにとって「彼らではありえない(というか無関係な)」存在でした。洗礼者ヨハネが「その人の道を整える者」であったのは、ヨハネ自身が「救世主は自分ではない」という限界を抱えていたからなのではないかと思うのです。
どの社会でも必ずある問題ですし、残念ながら差別のない社会は今まで存在したことはありません(「差別の否定」は、残念ながら「個の否定と全ての人の同質化」と混同されがちですし)。実際、当時のユダヤ教の「戒律」では「穢れた者たち」が細かく定められていたので、差別や富の差は非常に露骨なものでした。
「神」と「人」がかけ離れた存在であるのと同じように、ローマ帝国下におけるユダヤ社会において、「富める者」と「貧しき者」の構造、要は当時の社会体制のまま存続して欲しい欲求は、ユダヤ人社会にも存在したのだと思います(別にそれについて何ら否定はしません)。
ただ、イエスが葛藤の中で導き出した答えはそうではなかった、というだけで。

聖書において「人の子」とは救世主のことをあらわしますが、イエスにとっては「人の子」=「神の子」=全ての人々だったのではないでしょうか(映画自体がそうですが、これはあくまで現代的な解釈です)。
だからこそ、この映画や原作(ちなみに『マルコ』もですが)では、物語は処女懐胎による誕生から始まらなかった。イエスはあくまで幾多の「神に選ばれた預言者」の一人として試練を受け、そのような解釈に至り、はじめて「救世主」となった。彼に言わせれば、全ての人々が救世主なのだと言いそうですが。
そして、その「世を救う方法」とは、「武力ではなく、人々の心の変革以外有り得ない」。まずは自らの中にある妬みや差別意識などを克服し、自由な精神を手にすること以外に有り得ないと。
この映画で提示されたイエスの理想は、非常に現代的なテーマでもあると思います。
…だって、それって非常に抽象的な目標じゃないですか。
「衣食足りて初めて礼節を知る」とか言いますが、殆どそのレベルの話じゃないですか。そして、一応衣食の足りている日本人の私たちにとっても、それは非常に困難なテーマじゃないですか。

イエスはそれを人々に説いてしまったのです。

実際には、あらゆる意味でユダヤ社会における価値破壊をしまくった集団のボスとして、イエスはユダヤ社会に抹殺されたのだと思います。映画ではその辺は省略され、「精神の変革」というイエスの理想を正確に理解し、危険視したローマ総督ピラトの手によってイエスの処刑は決定するのですが、この辺も「イエス物語」に名を借りた現代劇だな、と思います。スコセッシもそれは意識的でない筈がなく、役者は全てブロークンの英語を使っています。だから、これは端から唯一無二の「神の子」の物語ではなく、「一人の人間が神の子になるまで」の物語なのです。
そして、私はそうして戦い抜いて死んだイエスに惚れたのです。
蛇足ですが、有名な断末魔の言葉、「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか)」は、イエスが紛れもなく絶望を感じる人間だったという証拠だと思っています。信じたもののために戦い抜いた果てになお疑いを抱き、絶望する姿が(ちょっと変な趣味ですが)好きです。


ちなみに『最後の誘惑』はここまでで終了して良いと思っているので、後はどうでもいい(というか冗長すぎる)のですが。一応触れておくと、その後イエスは断末魔の絶望に負け、「天使」を名乗る少女に導かれて「もし十字架にかかっていなかったら」というifの世界へと入って行きます。そこで普通の男としての一生を過ごし、妻を何人も娶り(この辺の描写が問題視されたらしい)、魅力の欠片もない老人となって安楽に老衰死を迎えようとするのです。この部分は本当に冗長なので、「もう少しめりはりのある演出にして欲しかったものだ」といつも思うのですが、普通の男イエスの魅力の無さについての説得力は、逆に物凄いものがあるとも言えると思います。そういう意味では、これで正解なのかもしれません。
一度人並み外れた夢やヴィジョンを抱いてしまった人間が、その重荷に耐えかねたからといって再び群れに戻ることなど許されないのです。

ちなみにこれは悪魔が磔刑死の寸前に見せたifの世界なので、弟子たちがイエスを裏切った事実も無かった世界です。老衰死寸前のイエスを、かつての弟子たちが見舞うのですが、唯一彼を罵倒し、現実に引き戻してくれる存在がひとりだけいます。イスカリオテのユダです。イエスを十字架に導いた男、呪われた裏切者ユダは、現実ではイエスの唯一の理解者であり、十字架に至る道への共犯者でした。福音書を読んでいた時にも、イエスを売った後で速攻自殺をするユダの方が、命汚いペテロたちよりかっこいいと思っていた私なので、この解釈は大納得だったのですが。自殺者は天国へ行けないとか何とかキリスト教では言われますが、イエスの磔刑もまた一種の自殺であって、共犯者のユダもまた共犯者として死を選んだのなら、この二人も天国とは無縁な場所にいるんでしょうかね(笑)?
あくまで「唯一無二ではない神の子イエス」だと思う私としては、そんなことを思ってしまいます。この映画は現代劇だと思うので、その問題が意識されていないとは私は思いませんが。



映画自体の話はここまでなのですが、私はイエスに憧れ、生きていた頃の(『マルコ』の)イエスに惚れ込んでいます。ただ、福音書を読み返し、この映画を観返す度に思うのです。

磔刑によって、イエスが完全な救世主=キリストになったことの功罪を。

確かに、イエスの作った集団の中で彼(の精神)が生き続けるためには、彼は死んで人々の心に残る以外に有り得なかった。ちょうど都合よく、「過越の生け贄となるメシア像」の預言が旧約にあった(ノートしまっちゃったんで具体的に明示できずすいません)。彼の死は、いわばひとつの宗教が宗教として完成するための必要不可欠な最後の要素だった。彼は確かに甦り、永遠に生き続けるだろう。人々の心の中で(だから不謹慎だし手垢のついた意見だけど、メロン食ってた人も警察の踏み込み前に死んでいたら、新興宗教には珍しい完成を見たかもしれないわけだ)。
そして後は残された者たちが全てを整えてくれる。
イエスの望みとは程遠い「教会」が建てられ、維持される。

そして、長い歴史の中、イエスの名のもとに幾多の命が失われる。

その失われた命と理想によるイエスの死。これが果たして釣り合うものなのかどうか、私にはずっとわからずにいます。むしろ、イエスがキリストとならなければ、その名のもとに失われた命も失われずに済んだのではないかと思うと、イエスは命をかけて人々の心を試し続けている、とても性格の悪い人なんじゃないかと思ったりもします。そして、そんなふうに人の心を試す資格が彼にあるのか、と私は問い詰めたくなってしまうのです。
「イエスの流した血は人々のための購いの血」なのではなく、むしろイエスのために人々が購いの血を流し続けているとしたら、彼は歴史上に名を残すべき存在ではなかったのではないか、と思うのです。


ま、歴史学的に言えば、「イエスのような有名人が仮にいなかったとしても、それに代わる人物は必ず存在する」という考え方がベーシックなものらしいので(史学科では、ヒトラーやナポレオンなどを引き合いに、新入生にまず最初にそう教え込むらしい)、それで私は自分のこうした疑問や葛藤に対して思考停止をするのですが。


イエスは誰かを救うことができたのでしょうか?


この記事へのコメント
拙文にTBをありがとうございます。

「最後の誘惑」について、ユダについて、それから「キリストの功罪」について、大変興味深く拝読しました。

私があの映画を好きな理由のひとつは、裏切り者のユダを非常に寛容に扱っているところです。寛容というか、いちばんいいヤツ(笑)。decoさんも書いておられる通り、ユダは明らかにイエスの「共犯者」だと思います。ユダが裏切らなきゃイエスの受難も復活もないのに、単純明快な「守銭奴の裏切り者」と記号化している人が多い気がして、私には大いに不満なのでした。映画はそこを「泣いた赤鬼」みたいな友情モノのテイストで描いていて、まあ、それはそれで極端な話だと思いましたが、その俗っぽさが個人的には買いでした。ユダを演じるのがハーヴェイ・カイテルというのも、スコセッシファンを泣かせます。

キリストの功罪=パウロの功罪みたいなところもあると思います。老いて妻帯したイエスに向かって、ハリー・ディーン・スタントン扮するパウロが「あなたは俺の知っているイエスじゃない」と言い放つ場面なんて、物凄い皮肉ですよね。あんなこと言われたらイエスは報われないです。気分的には、フジテレビをホリエモンに乗っ取られる日枝会長みたいなもんでしょう(ちがうか)。でも自分のしてきたことの報われなさを知った上で、彼はふたたび十字架に戻りますよね。その辺は素直に感動しちゃうところです。

「マルコ伝」がお好きなんですね。

私は旅や仕事などで地方のホテルに泊まると、必ず備品の福音書から「マルコ伝」を抜き出して通読します。理由は短いから……。というのもありますし、なんだか記述がいちばん信用できそうな気がするからです。いえ、奇跡の数々が本当に起きたと信じているわけではありません。書き手の記述の姿勢が、なぜだか信用のおけるものに思えるからです。

長々と駄文をすみませんでした。今後ともよろしくお願いします。
Posted by ぜんば at 2005年03月15日 02:28
こちらこそ興味深く拝読させて頂いたのに、丁寧なコメントをありがとうございます。
そうなんですよね。この映画って、イエスとユダの関係の描き方が魅力的なんですよね。書くと長くなりそうだったので、本文ではあえてあんまり触れなかったのですが(笑)。実際、福音書でも弟子の中で、唯一アフォなことを言わなかったのがユダなんですよね。ちなみにデフォーばかり誉めましたが、ハーヴェイ・カイテルも素晴らしかったです。
ところで、イエスの生前からアフォだったのに、『ルカ』の続編の『使徒行伝』での弟子たちの醜悪さといったら、イエスが目の当たりにしたら正拳突きものだろうと思います。そんな弟子たちをユダはどう思って見ていたんだろう、とずっと思ってましたし、パウロもまた彼らと対立関係にあります。私にはその意味がとても重要なものに思えてなりません。おっしゃる通り、パウロもまた、イエスの死後、彼の生と死の意味を最も真剣に追及していた男だと思うのです(ちょっとてんかん持ちで怒りっぽいですが笑)。
そんなユダとパウロの叱責によって、イエスが再び十字架の現実に戻るシーンは漢泣きの極みですよね(しかししつこいですが、あのアフォ弟子を放置したままキリストになり、神に感謝しながら息絶えるなよ、と私は思うのですが)。
ちなみに私はお茶目なイエスに目が釘付けだったので(笑)、ワインの奇跡で浮かべる得意げな笑みにはうっとりでした(笑)。
マルコは実際に一番信頼のおける文献です。歴史的に最古のイエス伝だという意味で、人々の持つ彼の生前の記憶を最も生の形でというか実直に(矛盾も含んだまま)伝えている書物ですし、他の二つと異なり、はっきりとセクトの教本の形を取っていないからです。そういった意味ではイエス伝承文書に近いのかな、と思います。個人的には、マルコを一番信頼できるとおっしゃる方に初めて出会えて嬉しいです。
つい長々とレスってしまいましたが、こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。『バラバ』も早速読んでみようと思いました。
(レスがあんまり面白くなかったのでさりげなく書き直してみたけど、あまりかわんなかった)
Posted by deco at 2005年03月15日 23:16
いえいえ、面白いですよ。勉強になります。
おまけに笑えます…。>アフォ弟子

>マルコは実際に一番信頼のおける文献です。

そのようですね。そういえば、マルコ伝における「復活」後の記述も、後世書き加えられたものだとか。となると、皆して空っぽの洞窟の前でガクガクブルブル震えている場面がラストシーン……。でも、マルコ伝のそんなあっけないところも好きなんです。唐突に始まり唐突に終わる愛想のなさが。天然酵母パンみたいな味わい(笑)。

『バラバ』、実は読み返していたところです。童話みたいな文体ですが、構成がたくみですし、さりげなく毒もこめられていて、何度読み返しても飽きないです。信仰を持てない者が信仰を受け入れるまでの話です。いつかお時間あるときにでも読んでみてください。
Posted by ぜんば at 2005年03月16日 11:02
最後の洞窟のシーンにしても、最初に行ってみたのは(処刑シーンもそうだけど)イエスにまつわる女達なんですよね。実は弟子たちは既にエルサレムから逃走後だったりしたら笑えます。

ラストの神々しくないところ(笑)。私もマルコのあっけないというか愛想のないところが好きです。

『バラバ』、探したら版切れで慌てたんですが、在庫残ってる書店を発見して購入できました〜。手許に来たら丁寧に味わいたいと思います。感想書いたらぜひ読んでツッコミ入れてやって下さいませ。まだ各書評を目にした印象に過ぎませんが、良書を教えて下さってありがとうございます★
Posted by deco at 2005年03月19日 10:17
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