2006年03月18日

キリスト者とイエス者はやっぱ違うんだよなあ

当たり前ですが。
ちなみにキリスト者とかイエス者(←普通こういう表現はしませんが笑。「人間イエスおっかけ」です)とか羅列してると、サウスパークシーズン801の挿入歌、「素晴らしいチンチンもの〜金玉のためにある〜」を思い出します。「←それは逆じゃないのか」という意見を男性の方から聞きましたが、別にそんなのどうだっていいんだー。

なんか私が自分のエントリ「聖書学は〜」でオヤジポエマー様(マイネトア)の語る聖書学への想いに絡んでいたことについて、左近さんが「正しい信仰とは盲信を強要するものでも理性を制止するものでもない」にて引用紹介なさって下さっていたのだけど、なんか位相がずれてるとすれば、総体としてみんなでずれまくってるような気がしたので、確定申告後に体力が残ってたら概観を纏めてみようかなーとか思いました。

なぜって、私の長文コメントが更に渾沌を招いてしまったからー。あう。

★3/18 やっと記事追加しました。
★3/23 その後について更に追加(…)。.
.
案の定、確定申告で禿げ上がるくらいばてまくり、このテーマを纏める胆力が出なかったわたくしです。

いや、キリスト教つうかイエスつうかこのジャンルの話を書く時ってけっこう自分なりにマジになってるらしくて、異様に体力を消耗するのですよ。単に物忘れがひどくて、いちいち確認取ったり頭の中を漁ったりしながら書いてるせいかもしれないけど。


ええと、以前私がオヤジventさんの前述記事に絡んだ動機としては、以前からキリスト教や信仰に微妙に絡む文脈を、finalポエマーさんと私がたまたま同時期うpするようなことが数度あって、シンクロニシティ(バキネタ)を感じて面白く思っていたわけなのですが、同時に同じテーマに迫りながらも、何か全く異なる事柄について語っているのではないか、というもどかしさを感じていたのですよ。んで、ここ最近の記事を拝読する限り、オヤジ極東ポエマーさんはある種の正統な信仰のもとに(というかそれを前提として)キリスト教を語っているのではないか、という仮定が生じたので、ストレートにツッコミを入れてみた上で、自分なりの「聖書学」への印象を語ったというわけです。

実体験語りは実際はどうでもよくて、卑近な具体例があった方が多少なりともわかり易くなるのではないか、という思いがありました。
なぜなら、この問題は理性を巡る論題でありながら、実際には論者個々人の立脚点が最も重要かつネックになるナイーヴな問題だと思っているためです。もう少し噛み砕いて言うと、この論題の語り手がどういう立ち位置からそれを語っているか、そしてその立ち位置をどこまで意識的に把握し、更にそれに対して感情と己の論理構造を切り分けようという努力をしているのか否か、という何重にも渡る自己の把握をくぐり抜けた上でないと、まさに「位相のずれたやりとり」にしかならないだろう、という思いがあったからです。

更に単純な例で説明すると(乱暴すぎて誤解が生じそうですが)、「うどんについて会話をする」というシチュエーションだけでも、関東人か関西人かというバックボーンから、それぞれ関東風・関西風のどちらが好みで食べつけているかという個々人の嗜好、更に特殊な場合には、互いの地方に対して持っているイメージ等々は案外外せない情報で、それらが全く白紙の状態で突然「うどん」について話をするとわりとちぐはぐな会話になる、といったような経験は、誰もが多少なりとお持ちだと思います。そんな感じのお間抜け感が、思想や宗教について他者と語る時には、殊更顕著に出てくるような気がしたわけです。

パーソナリティが純粋理性(笑)だけで出来ている人間なぞいる筈もなく、まして宗教学などはとりわけ人間や社会の価値観に大きな影響を与えている場合が多い「信仰」の問題とガチンコな学問にあたるので、そりゃ個々の論者の立脚点を知らずして、活字になった文章だけで何かを判断できるわけがない、と私は思っています(実はどのジャンルでもある程度は似たり寄ったりだろうと思うのだけど)。
だから、例えばブルトマンの言説をどれだけ引用しようと、それは引用者にとって共感できる文脈をそこに読み取った、というだけのものであって、第一にブルトマン当人の言説を正確に読み取っているかどうかは無関係だということ、第二に引用者の立脚点が明らかにされていない状態での引用である以上、読者はどういう文脈でその引用が行われているかの吟味すら難しいということ、大きくはこの2点から、引用が己の論旨の正当性を高めるものとして有効な手段では何らあり得ない、と思っています。

そして、私自身学問の場を離れほとぼりが冷めてようやく気付いたことですが、己の論旨を展開する場合、己自身の言葉(できればシンプルな言葉)だけで語れない内容など、所詮生解りでしかないし、引用など張り子の虎に等しいのではないか(引用箇所を上げつらって議論する場合や、対象への過去の議論を吟味する場合はまあ別ですが)、ということでした。
いや、学生時代、テクニカルタームを自在に駆使して華麗に一見難解な議論を交わしている院生の姿にはちょっぴり憧れたものでしたが(笑)、それを乱暴でもいいから短く簡単に説明しろ、と頼むと案外出来ないようなんですよね笑。それから私も、一見難解な表現なんてものは訓練次第でいくらでも装着可能なアイテムなんだって学んだわけですが、以来、学者が一般向けの本をあまり書きたがらないのは、要は噛み砕いて説明できないからなんじゃないか、という仮定を自分の中でなかなか否定できません笑。


というわけで「信仰」の問題ですが、宗教は顕教と密教の両面、言い換えれば(そのフィールド内での)論理学と個々人の宗教体験の両面から成り立ってるものですよね。
キリスト教でも、聖書学に限らず、言葉(というか論理)によってそれを説明しようと言語構築している部分は全て論理学に入ると思うのですが、この両面は二分できるものではなく、相互に補完し合っているものなわけですよね(「両面」なわけですし)。宗教体験がなければ、それはそもそも宗教というか信仰として成立しないわけだから、当たり前です。

ただ、キリスト教の場合、その成立が歴史的にも地理的にも大変ボミョーな位置にあるので、ユダヤ、イスラム、そして仏教学と比べて、論理学の部分がやっぱりとても不安定というかボミョーな運命を持っていると思うのですよ。何故かというと、そもそもがユダヤから派生し、古代ローマ帝国の植民地の民衆をその中に取り込んで宗教として生き残ったため、(それゆえ、使徒行伝などでは信徒内での民族間の差別問題やら権力闘争などやらが生々しく記録されている)「イエスの教え」そのものが多元的というより混乱した状態で乱立してしまった。それがローマ帝国の国教になるにあたり、ある程度教義を整理というか論理化しなければならない局面に及んで、ローマで最もポピュラーな論理学を用いてしまった。それ自体がそもそもギリシャ哲学からの借り物だったため、ギリシャ哲学の論理構造の持つ盲点というか弱点を抱え込んだまま権力闘争になだれ込み、結果「正統」な教義の主として勝利したのが西方教会であり、その下で整理され残された形が現在の聖書である、と(だから政治的な勝敗が違っていれば、東方教会が正統であった可能性もあると)。

本来、宗教哲学などは、そのフィールドを前提として論理構築するわけで、その地盤というか前提がしっかりしていれば、その上に宗教的議論を構築していけば良いわけで、そういう意味ではユダヤもイスラムも明確な地盤の上で論理学が構築されているし(内容をきちんと学んでいないので深入りしませんが)、ある種の仏教哲学なんぞは本当に緻密で、自分とは別の世界観のもとにありながら、日常にフィードバックできる知恵として何かと学ばされ、気付かされる事柄が多くあることに驚かされます。
反面キリスト教はどうかというと、「神の存在」「神とイエスの関係性」等々、本来は前提として存在すべき概念が問いの対象として存在することが「宗教哲学」としての危うさを含みつつ、長いキリスト教神学のテーマとなっていったのだと思います。それもこれも(以前のエントリでも触れましたが)、「もし本当に神が存在するとしたら」という仮定から始まり、それを証明するという形式のギリシャ哲学の問いの様式を継承してしまったからなのだろうと思っています。

ブルトマンの功績は、史的イエスとケリュグマのイエスを分離したことにあるのだろうと思いますが、要はようやくイエスは神学の前提として、そして信仰の対象としての信仰体験の中心として、いわばシンボルとして在ればよい、という判断を下したということだろうと思います。
それは私には、イエスの実態を何とか掴もうと必死で試み、結局それが空しい試みだと知ったブルトマン(またはより現代的なメンタリティ)の信仰を守るための必死のパラダイムシフトなのではないか、と思わずにはいられないのです。

要は、聖書学は根本の問いの様式自体が「理性」を標榜するギリシャ哲学であり、それ自体の構造が危うさを持っているため、信仰を論理学の面から補強するためには、「理性と信仰」を分離し、本来前提である筈の定義までを問わずにはいられない、という神学の一ジャンルである、という不運(?)のもとにあるのではないか、と思ったわけです。
そんな中で育まれた西欧文化が理屈と理性好きなのはもう宿命だろ、とか思うわけですが、私的にはそんな性質を「必死だな」とちょっぴり微笑ましくも不憫にも、そして何だかんだいって現代社会ヘのリードを取った理性なんだなあとか思うだけで、他人事として突き放すつもりも嘲笑うつもりもありません。だって私も日本人ですが、日本人らしく非常にアバウトにごった煮にされた西欧的な価値観にも触れて育ってしまった以上、「問い」を証明すべき前提として問わずにはいられない思考形態も自分の中に持っているだろうと思うからです。


というわけで結論というか何というかなんですが。
ちなみに私は、西欧人の聖書学に対する姿勢はそれなりに業績を残した人物の著作から窺うことしかできず、生西欧人の一般的な姿勢まではリサーチしたことはありませんが。
彼らの仮定への論証は、基本的に非常に執拗です。原書で読んでも非常に執拗で慎重です。そこには時代なりのメンタリティに従い、信仰を論理的に補強しようとする必死さが伺える気がします。
現役の学生だった頃は、そこに歯切れの悪さを感じて屁理屈の積み重ねとしか思えなかったのですが、距離を置いてみて初めて、それこそが西欧人の懐疑主義や、信仰を現代的に適応させていくバイタリティを生んだものなのだろう、と思ったりしています。

私はキリスト者ではありません。
理由は何度も書いた気がしますが、要は(「神は唯一のもの→精霊なんて眷属がいちゃまずいからこれも神の一形態→イエスが「神の子である人間」として独立した存在なのもまずいから、これも神が人間の形を取って人間世界に現出したものである」みたいな無理矢理な)三位一体論を私は感情の上で受容することができないこと、イエスの復活を比喩として以外には感情的に受容することができないことという、キリスト者として最低限の条件を充たせないためです。ついでに教会を私は認められない。
ただ、語られている「イエスという人間の物語」に対して感情的に共感をおぼえ、それが自分の生きる姿勢に大きな影響を与えているからこだわらずにはいられないというだけです。そうした立ち位置から、私は福音書の研究に一時的に関わり、そしてそこにある描写を多分この先もずっと考え続けるのだろうと思います。私の生き方が間違っていないかどうかを見極めるのに必死だからです。

一方、これは日本人という民族性の問題なのかもしれません。私がその著作や人物より見知った日本人の聖書学者においては、自己の立脚点がどこにあるのか、何を守ろうと必死なのかが明らかにされていることは本当に稀だと思います。これは私の想像ですが、一般的に日本人的メンタリティは己の立脚点を問い、吟味する機会もさほどないため、そこに意識的であること自体が稀なためではないか、と思うのです。
つまり、西欧的文脈上の「理性」と日本人の語る「理性」は、その性質や重さにおいて全く異なるのではないか、そしてその部分を問うことがないまま、聖書に向き合っているのではないか、と。
だから信者同士の間では、(本当は違っていても)聖書や信仰について何となく共通見解として語り合うことができる。しかし、その枠外の人間とはいくら語り合っても「うどん」論議のように話は噛み合わず、また何故噛み合わないかについて考えることも稀なのではないか、と。ちなみにキリスト教学だけに限らず、西洋思想研究者についても似たようなものだという印象がありますが。

そしてそうある限り、他の宗教や思想について、己の立場から何かを語り判断することなど出切るわけがないですよね。個人的には、オウム事件や各種新興宗教・自己啓発セミナー類については、曲がりなりにも宗教や思想を扱っている人々の知恵こそが必要な場面だと思っていたので、「現代の事象についてはまだ評価が定まっていないので語れない」などとぬかして一切口を開こうとしない学会の状況にはかなり苛ついたものですが、今となっては過大な期待をしていたものだ、と思います(笑)。


そんなこんなで、そもそも理性と信仰を切り分けるのではなく切り離して扱おうと思う方が無理があると私は思うし、理性の限界を知りつつ、キリスト教論理を語ろうとする姿勢にはそれなりに好意を感じます。
私もキリスト者ではありませんが、「人間イエス」が既に一つの物語であることを知りつつ、「人間イエス」のかすかな痕跡を聖書学に求めています。


だから、私とオヤジポエマー氏の立ち位置や方向性は特に似ているとは全く思いませんし、そもそもここまで現代化に成功したキリスト教という枠において、誰もが方向性を一つにする必要自体が無いのだろうと思います。
そして、ポエマー氏がキリスト者としての枠内にあって、「聖書学が理性である」と語られるのは大変理解できることですが、それは氏がキリスト者であると明示した上でないと通用する弁ではないと思いました。
なぜなら、非キリスト者でありながら聖書学を必要としている私にとって、聖書学は実感として、やはり理性と宗教体験が切り離せるものだとは思えなかったからです。

そもそも「信仰」というか「何かを信じる」という行為は、それ自体が理性を基にした行為ではなく多分に感情に根ざした行為で、宗教体験とはその劇的なものなのだと解釈しています。そういう意味では、私はどこにいるのかわからない「人間イエス」を信仰していると言っていいと思っています。
だから、左近さんの記事、「正しい信仰とは盲信を強要するものでも理性を制止するものでもない」は、タイトルからして失礼ながら矛盾を孕んでいるものだと思いますし、私の以前の記事の意図(これも何故議論としてすれ違うのか、というものだったのですが)も読み違えられていますし、どうせ記事を取り上げて下さるなら、(他の方へのコメントですが)

信仰という言葉の意味をどこまで広げてとらえるべきかとか聖書学に対する姿勢とか今少し考えていたのですが、そんな語義などの問題ではないなと思い直しました。ただただ神を頼みとする(そして神以外の存在に依存しない)という生き方を実感として知る方が増えたらいいですよね。

という結論で締められるのは、ちょっといかんともし難い気持ちを感じたりしました。だってそれこそ「盲信」マンセーって姿勢じゃん。何故話が噛み合わないのか、という問いへの突っ込みになってないし、むしろ非キリスト者は話題に入ってくるなや、という排他性すら感じる言葉だし。

要は、この国で儲の人が信仰や宗教や社会への意見を語る場合、無意識的にその価値観前提で語る場合が多いように見受けるので、どうしても話が議論として成立せず、すれ違うばかりだよう、と思いましたというエントリ。
「しかもそのすれ違いを語ると、「非儲が自明である物が見えていないためだと言われるよう」という印象を持たざるを得なかったのが左近さんの私へのトラバだと思ったという次第。
つうか「正しい」信仰て何だよ。何かへの強いベクトルを持った感情的な(盲目的な、と言い換えてもいい)価値観、それが「信仰」じゃないんだろうか。価値観自体それが御立派な宗教であるかカルトであるかは、それが社会的認知を得ているか否かの違いしかないのではないか、と私は思うし(原始キリスト教は当時実際カルトだったわけだし、それは社会的多数を占める価値観にとっての距離と、その距離がもたらす危険性から決定されるものだと思う)、そもそも「ある種のベクトルを持つ価値観」は何かの儲じゃなくても誰しもが無意識的に持っているもので、それがある時代のある社会を築いている大きな要素なのだと思う。
私が不思議に思うのは、少数故に無意識の領域から意識的なものになるのが自然ではないか、と思う「己の価値観=信仰=立脚点」を、日本人キリスト者の場合、なぜか殊更自明のものとして意識上にあげていない気がする、ということでした。
確かに福音書には「目を開いている者」をそうでない者から選別し、「目を開く」よう煽るようなイエスの文言がありますが、あれはそもそも「ローマ植民下における一般ユダヤ社会」の含むある種の欺瞞に対して呼びかけた、少数の立場からの呼びかけであって、己の立脚点を再確認し、それをイエス(キリスト教)側に置くよう迫るものであって、現代日本とはまた状況が違うと思いますからねえ。現代日本で「信仰の無い香具師には何を言っても無駄」とか言われても、それは対話を勝手に拒否されていることにしかならないですよ。
(では対話が成立すれば共存できるか、と言われれば、それはまた別の問題になると思うのですが、それすら成立不能な以上、「互いに縁がなかったですね」と言わざるを得ないし、日本社会の場合、無害な限りは互いの存在を「なかったことにする」ことで何とかしているように思えます。オウム信者受け入れ問題に関しては、それが仮に「過去有害であり、今後も有害である可能性のある、非常にかけ離れた価値観を持った集団」に対して、「なかったことにする」技が使えないという事態なのだと思うし、私が何故キリスト者や宗教哲学等々の専門家たちに失望したかといえば、彼らこそが一番そうした問題に対して意識的であり何らかの回答を唯一持っている人々である筈だ、と勝手に信じていたからです。思えば私も初心だった)

実際、そんなこんなな空気に敗北して研究人生を終えた側面もあるのですが、「あえて異物として学会に残って不快感をまき散らしまくる」という人生も面白そうだったな、とか、今となっては思うこともあるわけですが、この暗記力じゃいかんともし難いのでした。いや、天の邪鬼行為で人生送るのも無意味なものだから、現在選んで在る境遇をがんがりますが笑。

いや、結局長くて回りくどくて更に「わかり切ったことをクドクドと」な内容で申し訳ない。



★3/23 補足
当記事にトラバって下さったsummercontrail氏の記事、「信仰とは盲信を強要するものではない」ですが、記事中にてこちらのエントリを引用されて意見を述べられていたので、私も誠意をこめて先方にコメントさせて頂きました。
その後、論題が何かも不明な論争が数度交わされ、「そもそもトラバって下さった記事自体が他の方の発言内容について吟味している記事であり、decoと論争をする場ではないことを再確認されたい」とのことでした。だったらトラバ打つなよ、とは思ったのですが、先方のエントリを荒らしたという点において、管理人側の立場としてはそれも尤もなご意見だと思いました。
それにつきましては、当方も大変反省しております。

ただ、「ご本人の過去記事を読んだ上で私の過去記事の主張内容がまったく変わらないということなら、先方もそれへの応答を掲載する」とのコメントについては、私の過去記事の何がどう批判され、改めるべきと言われているのか全くわからない不親切なコメントだと思いますし、そもそも先方の当該記事の主旨によって私の記事の何を批判しようとしているのかをまず明示せず、「読んで自ら悟れ」と言わんばかりのコメントには少々呆れざるを得ませんでした。一応がんがって拝読し、それで私の主張の何を変えろと仰ってるのかサパーリわからなかった旨もお伝えしたのですが。
つか、たった今論争している相手に「(己の正論を)読んで自ら(過ちを)悟れ」って姿勢は、それこそ「信仰が盲信を強要していること」を示す良い一例じゃなかろうか。私が要約した際に付加した行間の言葉のことかと思うのだけど、先方の論旨への批判について、「御自身が仰っていない言葉を出して批判する」と仰るならば、改めて正しい付加によって要約文を修正批判して頂きたい。

また、こちらにて、先方のネット上での交流の姿勢について書いてあるから読め、とのことですが、自分の時間という資産(笑)を費し、先方のマイルールを推し量る義務があるとは思えません。

この論戦(?)は、最終的には「私が先方の主張していないことまで先方の言葉として取り上げ、批判しているほど感情的である」ため、数カ月はこの話題に付いて議論する気はない、とのご回答で幕切れになりました。

そもそも私としては、summercontrail氏がどのような立場からこの問題を語られ、私の記事を批判されているのかを知りたかっただけでしたし、先方の要求も一個はクリアしたのですが、いずれにしても簡潔にできる筈の応答を頂けないのはどうしてなんだろうと首をひねるばかりです。

いずれ、こうしたボミョーな幕引きは大変残念に思いますし、本エントリにて論題に置いた「立場の違う者同士の対話の困難さ」を地でいってしまったなあ、という思いもあります。

議論とは確かに、自他の差異を認めた上で互いの論旨を納得しあうまで続けるのが最適だとは思いますが、一方で、他者どうしの出会いとタイミングは一期一会であるという思いもあります。だからこそ、目の前の論争に滑稽な程真摯に向き合えるのではないか、とも思います。

なので、数カ月後にいきなりこの話題を蒸し返されても、忘れている可能性が高いので(笑)、むしろここで完全に幕切れにするのが良いかと判断する次第です。
やー学生時代に儲と会話が噛み合わなくて非常に鬱屈とした気分を久しぶりに思い出したわ。
この記事へのコメント
 decoさんこんにちは、読ませていただきました。丁寧にお考えを書いてくださってどうもありがとうございます。

 さしあたり早めにお伝えしておきたいことだけコメントで書きますが、

>「信仰の無い香具師には何を言っても無駄」とか言われても

 そんなこと言ってませんよ。そんな風にとらないでくださいな。私がもし「対話を勝手に拒否」していたら、

deco★decocool: ええ正直私はクリスチャンにルサンチマン(笑)持ってますよ
http://decocool.seesaa.net/article/10415638.html

 のような記事を書かれる方とは関わり合いにならないようにしているはずです。
Posted by 左近 at 2006年03月19日 15:24
左近さん、こんばんは。
早速のコメント、ありがとうございます。
いえ、実際左近さんの文章って歯に衣着せないところがスリリングで、どうやら時に斬るか斬られるかのきわどさがあるのが真剣な議論の醍醐味だとご存じな方だと常日頃思っておりました。そんな左近さんだからこそ、私も今回の考察を進める切り口として、遠慮なく引用させて頂いた次第ですよー。

実際、全ての日本人クリスチャンに会ってリサーチしたわけではなく、だから彼ら全てが今回のエントリの私の批判に該当するとまでは別に思っていません。あくまで、自分の趣味から来る環境的に比較的出会うことが多かった、知っている限りの彼らに感じた共通項に対する疑問を私なりに纏めたかっただけです。
そして、キリスト者が非キリスト者に対してキリスト教について語ろうとする場合、非キリスト者に対する言葉というか、異なるバックボーンと価値観に対する言葉をもって語らなければ、おそらく対話は成立しないだろう、と思った次第です。そのためにはまず互いの差異と己の立脚点を知る必要があるだろうと思ったのですが、幸いというか残念ながらというか、日本人の場合は何だかその辺がアバウトな方が幸せな環境にいるようですね、と(だから対話が噛み合わないのはクリスチャンか否かに関わらず、どっちもどっちだと思います)。

そのようなわけで、左近さんの文章の引用はあくまで切り口で、私は左近さんを日本人クリスチャンの代表として考えているわけではないので、対話不能だとおっしゃっているとは思っていませんヨ★
昔外道とは言われましたが、私も一応キリスト教には縁を持つ立場だと思ってますし。
ただ、個人攻撃のような印象を与えてしまった稚拙なエントリだったようで、そこはお恥ずかしい限りです。
Posted by deco at 2006年03月20日 03:16
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