2006年04月15日

還り着く場所、「物」の意思◇映画『戒厳令の夜』

なんつうか親父がいい歳して昇進しておめでとうありがとうとか桜が咲いたから花見だとかそんなんばっかで正直すごい人疲れしてます(ヒキーなので)。
つうかクリスマスにかこつけて肉祭りな香具師らは…とか季節のイベント毎に書いてる気がするけど、桜にかこつけて宴会する香具師らは全員この世から滅んでしまえばいいと思う。桜を楽しめ桜を。


滅ぶといえば、日本映画チャンネルでやってた『戒厳令の夜』って映画の最後の方はなんかすごいゆさぶられた。つかあふれた。

(このエントリは3/27に途中まで書いたものです。).
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映画自体は、それ自体が意思を持ってしまうような芸術作品(絵画なんだけど)の持つ運命とか因果とかそういうものと、それを起爆剤に中央に反逆を試みる地方権力者の決起が2本柱で作られてる感じで、どっちつかずな散漫さを感じずにはいられなかったし、個人的には前者をあくまで柱に据えるべきだったと思うんだけど、永い間秘匿されてた絵画がようやく故郷の国に戻ったまさにその時にクーデターが起きたあたりからは圧巻の一言。

南米のとある国。クーデターの最中に描かれ、それらは全て燃やされ、そしてヨーロッパに逃れた画家は結局そこで第二次世界大戦に遭い、命を落とし、作品は散逸。それが何故か博多から出てきたといういわく付きの作品類。それが戻ったから再びクーデターが起きたのか、所詮そうした戦火の中に戻る運命だったのか。

絵画を故郷に戻すべく尽力した人々は容易く銃殺され、貴重な作品たちは火にくべられる。自分達(作品)に関わった人が死ぬ度、そして自分達が破壊される度、作品の魂だと思われる「喪服のようなストールを纏った少女」たちが立ち上がり、死体の中をあてどなく歩いてゆく。
少女の表情が鮮明になる程カメラは寄らないが、所在なげな様、または人のそうした営みを別の境地から見つめ、哀しんでいるような様であることはわかる。イメージとしては「映画版エヴァの補完直前にネルフ職員の死体を見守るたくさんの綾波」というと伝わりやすいだろうか笑。

ともかく、少女は人間ではない。だから、殺す側とも殺される側とも同化しない。ただ、自分(絵画)を守り、故郷へ戻すために戦った人たちやその故郷を見守るだけ。

少女は知っていたのだろうか。または思ったことはあるのだろうか。
自分(絵画)が、死体で埋まった景色を造り出してしまう存在かもしれないことを。
また、自分は結局そうした景色の中へ還り、失われていくしかない運命だということを。
彼女はそれでも故郷に還りたかったのだろうか?
(パヴェル・サスノフスキーはそうだった。そしてタルコフスキーは、アンドレイ・ゴルチャコフを通じ、それを「ノスタルジア」という死に至る病だと語らせた。映画『ノスタルジア』の話。)



絵を何とか故郷に戻してやろうとする人間模様に殆ど全く触れずに恐縮だけど、私は「物」の中には在るべき場所を自ら希求する「物」があると思ってるし、関わった人は、そうした「物」の意識に突き動かされているだけなのだろうと思うことがある。
そして、それはそれで幸せなことなのだろうな、と思う。たとえこの映画の主人公たちのように、物のように殺されても。
なぜならそれは、ある種神聖さを持つほどの選ばれた無償の行為で(まあ「物」が選ぶのだけど)、選ばれた時点でその目的地までの旅は、ある種の神話に匹敵するような、物語風景と化すだろうからだ。そして多分、そんな経験ができる人なんか滅多にいないだろう。

私事でいえば、私のもとにあるアンティークは、ほんの少し羽を休める場所として私の手許を選んでくれているならいいな、と思っている。そして、いつか時が来たら、大切にしてくれる次の手に預けたい。


物とその精霊の物語としては、私の感想はここまでだ。
そして、この映画はあのラストシーンを撮りあげたことのみにおいて、私の中に強く居場所を作ってしまった。
彼女はあれから、どこへ消えていったのだろうか。


『戒厳令の夜』というタイトルが付いているだけあって(つうか原作は読む気にもならないし読まないけど)、この物語はもともと政治批判のメッセージ性を主としたものなのだろう。だから映画にした時も、「九州オヤジの決起」と「絵画の運命」という2本立てという有り様になってしまったのだろう(単なる推測だけど、原作では絵画の件は九州オヤジ決起のきっかけというかバックグラウンドに過ぎず、映画スタッフ的に「絵画の運命」の方に強く惹かれた結果、本来の「九州オヤジ決起」がむしろ余分に見えるようなバランスになってしまったのではないかと思う)。

アンティーク趣味の私が言ってもあまり説得力がないのだが、個人的には、「物」自体には罪はないと思う。精々が、それを巡る顛末の結果、人間が背負わせた業があるくらいだろうと思う。
もちろん、それらがいわゆる「贅沢品」として、国民を圧迫する象徴となった時代もあるだろう。でも、「物」が人を圧迫したわけじゃない。何よりそれらを造り上げてきた技術や幾多の手間や、絵画の場合ならば画家の生命やらが注ぎ込まれ、形をなしたものだ。


昔、「革命」という言葉にほのかに憧れていたことがある。今のうんざりするような退屈で理不尽な世界を破壊し、何物かに再生する。そしてそれは時代にずぶずぶに溶けこんだ人間には出来ない。…リアル消防くらいにいかにも憧れそうな、下らねえヒーロー願望だな、と思う。
実際に歴史が証明した革命とは、少しでも想像力があればすぐわかる。
「うんざりするような現実」とかガキ臭いことを言っていた現実よりも、更にただ一つだけの価値観を強要する。それを不快だとは思わないのは、その価値観を善しとしている中枢か、利害が衝突しない限りの何も考えていない人々だけだ。
(ちなみに私は人から納得いかない価値観を押し付けられるのが大嫌いだ)

そして、一番最低なことは、死者を出すことではない。死者なら戦争でも地域紛争でも出るし、不況のあおりで不渡りが出ても普通に暮らしていても出る。死はごくありふれた恐怖だ、と思う。いや、わけわかんない革命思想に逆らってポテチソするのは禿げしく不服だけど、死なんて自分のグッドタイミングにやって来ない限りは普通に不服なものでしょ。

んなわけで、一番最低なことは、きまって文化破壊をすることだ。
己らが破壊した古い社会制度の象徴とばかり、全てを破壊し、焼き付くすことだ。そして味気ない悪趣味なものを文化と言う。

だから私はフランス革命に物凄く腹が立つし、更に徹底的な破壊っぷりだった文化大革命にもマジで腹が立つ。

イラク戦争は、ある意味文化破壊の側面を持っているのだろう。
アルカイダがたとえ当初どんな理念を掲げていようと、仏跡破壊のパフォーマンスをしたことは許し難い。

「物」は人の営みの残した貴重な形だ。人の歩んできた文化そのものだ。

だけど、アンティークやそのリバイバル作品(ナポレオンがルネサンス趣味で…)を見る度、当時の域には達しないのかもしれないけれど、十分美しいシャンティレースを見る度、何だかどうしようもないと個人的には思うけど京劇らしきものが復活しているのを見る度、思う。
「物」は確かに在るべき場所を知っている場合もあるし、それ自体の意思もあるように思えたりする。でも、「物」は形を変えこそすれ、幾多の破壊を乗り越えて私の眼前にあらわれ、私のもとに居座ってくれたりする。
そこには、人間がしたたかなのと同じようなしたたかさを感じたりもする。
幾多の革命や戦争が、完全に消しさってしまった「物」もあるだろうと思う。それを思うと、それほど哀しいことはない。

でも、この映画のラストを見て少しだけ救われる気持ちになるのは、絵画自体が壊され、焼かれようとも、その魂は故郷へ還ることを望んでいたのかもしれない、と思えることだ。

自分が死にたい時と場所で死ぬことほど幸せなことが他にあるだろうか。

少女の意外にしっかりした足取りを見る度、そんなふうに思ったりする。





あ、ちなみにテーマソングはアマリア・ロドリゲスだった!ちなみに作曲は
ジョ−山中(「母さん僕の帽子はどこへ行ったんでせうね」の映画の作曲をした人)。歌は哀切感に満ち、ラストシーンにとても合っていた(でも切り方がダメ)けど、どことなく土着感が漂うのはジョ−山中のせいなのか、ファドの女王アマリア・ロドリゲスの力量なのかその合わせ技なのかまあいいか。
posted by deco at 12:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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