2006年05月13日

マジ時間の無駄だった◇映画『パッション』書評

今日たまたまケーブルでやってたから観たんだけど、想像以上にひどい出来だったです。
確かにスプラッタ映画とか一部で言われてる通り(つうかそもそもそれが売りみたいな宣伝だったし)暴力と血は大量に出たけど、なにしろ大変説得力に欠けるめりはりのないスプラッタ続きなので、途中で退屈→うたた寝を避けるためにパン食いながら観てたくらいでした。
正直この映画が正視に耐えない凄惨さだという人とは多分絶対話合わないし、「余りのショックで心臓麻痺死した米人女性」の話はつくりだとしか思えません。.
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んで、実際『最後の誘惑』のレビューを書いた時から、『パッション』との比較の上でトラバして頂いたりしてたので、一応機会があったら観ておこうと思ったし、レビューも書こうとは思ってたんですが。

正直、観てから時間が経てば経つほどレビュー書くのが面倒になっていくつまらなさって何。


んなこと言っててもしょうがないので、気付いた変な点と本質的な失敗の原因だと思うことなどなど。


・なんでも公式情報によると脚本はわざわざラテン語とアラム語で書かれたというが、何故にラテン語なのかとか、脚本が書けるほどアラム語は体系的にきっちり研究が進んでいるのだろうかとか、入り口からして「必死で箔付けしたかったんだね…」という残念感に満ちてるのですが。(や、百歩譲ってピラトクラスのローマ人にラテン語喋らせるならまだいい。しかしアラム語はあくまで口語というか地口であって、よもや大祭司や律法学者には古代ヘブルか古典ギリシャ語が妥当なんじゃないかと。
当時のインテリの証はまだまだ古典ギリシャ語だったからねえ。
同様にペテロをわざとらしくケパとか呼ぶシーンも不自然笑。
また同様に、十字架上にかけられた『ユダヤの王』という晒し文句に何故に英語が混じってるねん
確かギリシャ、ヘブル、ラテン語の並記だった筈だと思うけど。


・何が何でもいい加減にしてほしいと思ったのは、やっぱ磔刑シーン。
88年公開の『最後の誘惑』ですら、正しい磔刑ポーズ(笑)くらいは調べ上げてきて、映画に反映させてるんですよ。
なのに軽ーく20年以上時間遡行ですか。
このブログで散々悪し様に言ってるキリスト教学の現場ですが、それでも私はそこできっちり正しい磔刑ポーズとその根拠と、それらを裏付ける文献とか習いましたよ。
掌なんかに釘打ったら、自重で肉が裂けておっこっちゃうんですよ。足の甲も同じ。だから苦痛を長もちさせるために、手首の2本の骨の間、足首の関節の間に打つんですよ。同様に、完全ばんざいポーズだと呼吸困難で即死しちゃうので、膝を折り曲げてワンクッション置くことで、自重があまり集中せず、死なない程度の呼吸困難が続くように工夫してたんですよ。

ともかく。まずはいいから少しは資料に当たれと禿しく言いたい。



あとすごい違和感を感じた点ですが、

イエスの血の償いはユダヤが持つ、と共観福音書にもはっきり記されている記事ですが。

・イエス逮捕&裁判は大祭司がこっそり行い、律法学者の一人が「この裁判は茶番だ」と反感を示している点。
つうかそもそもローマ兵をユダヤ社会の頂点が動かしている点。逮捕は確かユダヤ側によって行われ、その後ピラトに引き渡された筈。
また、イエスの各種行いを目の当たりにして、イエス攻撃をしていたユダヤ人が何人か信仰に目覚めるという茶番もある笑。

・基本的に構成は何故かゲッセマネの祈りから始まり(何故か小一時間も我慢できずに眠りこけて叱られたはずの弟子どもがきちんと起きて待っている)、確かに共観福音書の好きな箇所を縦横無尽に継ぎはぎして作られてる一貫性の無いこの映画ですが。
徐々に何かが根本的におかしいと思い始め。

理由:
なるべくローマの大勢、ユダヤの民衆全体にイエス磔刑の罪が集中しないように作られている。
ローマの場合は、ピラトは中間管理職として立場的に悩み、イエスの身柄をユダヤに委ねたと言えるし、ピラトの妻は最初こそ夫の立場を心配していたようだったが、暴行に次ぐ暴行に対してイエスに同情を覚えたりする。
反面、裁判後に鞭打ち刑を行ったりゴルゴダまで連行して行ったりする一般ローマ兵たちは、不必要なほどの悪意と暴力をイエスに浴びせる。

対するユダヤの民も「(イエスの)その血の責任は我々と我々の子孫の上にかかってもよい」というマタイ27:25の有名な言葉を口にしない。
基本的に福音書どおり、イエスに悪意を持つ群集として描かれているものの、イエスの姿や所業を見て信仰に目覚める人たちの姿もくどいほどきっちり描かれている。

この両方から、「後にキリスト教を国教としたローマを『悪の帝国』として描きたくなかった、そしてユダヤ人を決定的な悪として描きたくなかった」という意図が感じられ、それは「どこの場所にも様々な種類の人間がいる」というような哲学的な意図ではなく、なるべくはっきりとした敵を作りたくなかった、というチキンな意図が感じられます。それでどこが問題作じゃゴルァ。


・上記の内容とも関係があるのですが、確かにイエスの死を最後まで残って見守ったのはマグダラ、母マリアなど、イエスに従った女たちで、磔刑時には弟子どもは逃げまくって離散してしまったわけですが。
そもそも母マリアは、イエス活動の当初、地方で突然バンドやろうぜと仲間を集めて怪しげな集会をしている息子を連れ戻そうとするがごとく、イエスを家に連れ戻そうとします。そういう事情のためか、イエスもしばらくの間は、殊更家族を遠ざけています。なので母マリアがイエス集団に加わったのはけっこう後のことだと考えられると思うのですが、何故かこの映画では殊更に母マリアに焦点を当てています。マグダラではなく、何故母マリア。
そう思っていたら、イエス死後にしっかりピエタ像ポーズが入っていたので、何となくわかったような気がして、ウィキペディアで裏付け調査。

監督メル・ギブソン超伝統主義カトリック教徒だそうな。
ちなみに同ウィキの『パッション』の記事。「ユダヤ人を悪く描いていると欧米のメディアから叩かれた為か、イエスをキリストとして認めないイスラム諸国でも上映され、好意的に取り上げられた」とか書いてありますが、私からはユダヤとローマ帝国のどっちの顔も立てて作られたものとしか見えませんでしたけど。だから公開後「反ユダヤ的」とかいう批判も沈静化したんじゃないの。や、もしかしたら余りに愚にも付かない映画で話題にならなかっただけなのかもしれないけど。ほら、よく「問題作」ってことでお蔵入りになる映画が数年後にかかる時って、実は単に駄目駄目で集客が見込めなそうだったから、っていうじゃないですか笑。

んで、ローマはキリスト教(カトリック)を国教とした国。そして母マリア信仰といえばカトリック。
つまり、ローマの高級官僚(中間管理職だけど)や母マリアを多く描写し、この無個性で取り留めの無い映画のバランスを弱いパンチで揺らしていたのは、カトリック教徒メル・ギブソン(マッドマックス)監督の趣味というか必死の信仰告白だったってわけですね笑。



というわけで、「ゲッセマネから始まり、時折過去の情景が挿入されるものの、基本的には暴行→磔刑→ポテチソ→どうやら復活→以上」としか言いようがなく、しかも気に障るか笑っちゃうしかない程歴史考証が甘い映画でしたが。


一番の問題は、イエスとピラトと母マリアしか認識できない。ので、母&マグダラと一緒にずっといた若い男が誰だったのか全くわからなかった。
んで、ピラト以外は全員余りに没個性なので、一体何に共感または反感を持っていいのか、ストーリィのどこを見るべきポイントとしていいのかさっぱりわからない。

とはいえ、Amazonのレビュー記事などでは、「むしろキリスト教に疎い日本人の眼から観た方が、映画としての感動と衝撃をストレートに味わえるかもしれない。(斉藤博昭) 」とか書かれていたり、観客のレビューでも「痛々しい」とか「感動した」とか「人類愛や戦争に付いて考えた」とかボミョーなことばっか書いてあったから、普通はそうなのかもしれない。


なにせ私が『最後の誘惑』の生き生きしたイエスこそがイエスだと思っているから、本作のイエスが当たり前のように気に入らなかっただけのことなのかもしれない。なにしろ普通は、「イエスが笑ったかどうか」つうどうでもいい問題で延々と議論されるくらいだからな。


つまるところ、犠牲と人類愛の象徴、イエス・キリストには個性なんか誰も必要としていないのかもしれない

だからこの映画は、血慣れしていないパンピーが(すんませんスプラッタ全然怖くないんです)スプラッタにさえ耐え抜けば、イエス・キリストが痛々しいまでに一身を賭けて人類の罪を贖った感動ストーリィということになるのかもしれない。そんな素晴らしい存在に対する感情移入なんて、そんな発想すら出て来ないほど不必要というか、むしろ罰当たりなことなのかもしれない。


でも、私は死の間際に「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」と言い捨てて死んだイエスがやっぱり好きだし、そういうイエスじゃないと信じてついていくことなんかできない。そういうイエスの生き様や死にゆくまでの苦悩を共に歩んで初めて、イエスの物語に心を動かされ、感動や疑問が湧いて出てくるのだけれどね。

以上。


この記事へのコメント
バンドやろうぜワラタwwww
Posted by 福澤あゆみ at 2006年05月16日 00:29
だって福音書の弟子集めのシーンって、そんなふうにしか読めないんだもん(目についた相手に片っ端から声かける感じとか)。
だから碌な人材が集まらず、むしろ3日で破壊された方がよかったような教(ryが後に作られてしまう羽目になったわけで(ry
Posted by deco at 2006年05月16日 00:36
TBありがとうございます!
遅くなってすみません。風邪で死んでました・・。

いや、すんごい読み応えありました。

僕なんかは「盲信つうのは本当に退屈なものなんだなぁ・・」くらいの浅い感想しか抱けなかったんですが、こうしてみると細部までいろいろと工夫の凝らされた映画だったんですね。・・・工夫というか気遣いというか・・・。

この映画もカメラだけは本当に頑張ってるんで、何か勿体無い気はするんですよ。あと、キリスト教に関心を寄せるきっかけかなにかになって、後々に「あの珍品映画はなんだったんだ・・」と思えるようになればいいかと。


って・・なんでフォローしてるんだ俺は。
Posted by ぜんば at 2006年05月18日 04:48
ご無沙汰してます。お風邪大丈夫ですか?

ぜんばさんの↑(HPアドレス欄にリンク)記事にほぼ同意なんですが、あのように簡潔かつ要点をきちんと突いた文章にならなかったところがもどかしいです。

ともかく、「パッション」が「受難」という一部特殊な人(笑)にしかメジャーじゃない意味以外には、「情熱」というメジャーな意味を持ってる以上、そこには何か深いものがあるような気がずっとしていまして。んで、それは「イエスの情熱こそが受難への道だった」ことに他ならないのではないか、と私は思うのです。『最後の誘惑』は、そこを深く追究してくれていたので、受難が即物的な傷み以上の何物か−見る度に何かを考えさるような−になっていたのではないかと思います。
なので、こうした受難劇&イエス・キリスト(または人間イエス)への興味を喚起したいのなら、イエスまたはイエスをずっと見ている誰かに感情移入できる目=カメラによって撮られているのは最低条件じゃないかと思うのです。

だから、イエスの受難を「人から想像力を奪い去り、即物的な衝撃しか与えることのできない」映画、とのぜんばさんの文章以上にこの映画をよく表現している言葉は無いと思っていたので、私の文章は本当に残りの重箱の隅つつきです(笑)。
そして、私も折角のカメラワークが勿体無いと思いました。
カメラワークといえば、ゴルゴダまでの道での嘲笑う群集のカットは、完全に『最後の誘惑』のパクりだと思ったんですが、気のせいでしょうか?
(あれもそもそもボッシュからのインスパイアだそうですが)

そして『バラバ』、信じられない程ゆっくりとしか読めてません…。
Posted by deco at 2006年05月18日 18:40
ご無沙汰ですねー、そういえば。風邪、なんとか大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。いつも楽しく読んでますよ! バラバもまあお気軽に!

>こうした受難劇&イエス・キリスト(または人間イエス)への興味を喚起したいのなら、イエスまたはイエスをずっと見ている誰かに感情移入できる目=カメラによって撮られているのは最低条件じゃないかと思うのです。

激しく同意でございまして、それはこうした主題のドラマを描く上で、ほとんど基本的なシナリオ技法でさえあると思うわけです。一応、二人のマリアを何度も映し出したりしてはいましたけど、あれも単調な繰り返しばかりで、俳優さんが可哀想でした。

>「イエスの情熱こそが受難への道だった」ことに他ならないのではないか、と私は思うのです。

ああ・・・・・なんかすごくいいです、その言葉。「最後の誘惑」ってまさにそういう映画ですよね。「成就されました!」って到達点も情熱の行き着く果て、って感じで燃えてますもんね。久々に見たくなってきましたよ!

受難ということでいえば、ブレッソンが一匹のロバのいじめられっこな生涯を描いた「バルタザールどこへ行く」なんかのほうがよっぽど考えさせられましたですよ。ヨーロッパのほうが圧倒的に大人なんですよねえ。こういうことに関しては。直接イエスを描く、なんて野暮はしないってことですよね。

ゴルゴダのキャメラワーク……もはやパッションのほうは覚えていません……。最後の誘惑のほうは、えれえ下品なツラ構えの歯抜け爺ちゃんとかやたら覚えているんですが。
ただ、空撮かましてましたよね?>パッション。

最後の誘惑はあまりに低予算すぎて空撮の予算も取れなかったんだよなあ・・・なんて切ない気持ちになったりしました。

毎度のことながら、「最後の誘惑」をこんなに支持している方がいらして、なんだかしみじみと嬉しいですよ!
Posted by ぜんば at 2006年05月19日 01:41
ブレッソンの「バルタザールどこへ行く」は浅学にして知らないのですが(あう…)、もしかしてロバがバルタザールなんでしょうか?
EU諸国の纏まりのなさを見ていても、欧州のひねくれ度合いというか無駄なほどのエスプリ(笑)というか一筋縄ではいかなさを感じるのですが、犬と鶏が出て来てカスパール&メルキオールだと…まんまやねん、ですね笑。
この映画、探して観てみようと思います。なにせアメリカとどちらがイエスと付き合いが長いって、ヨーロッパであることは確実ですもんね(笑)。しかも地域色豊か。タルコフスキーの映画の草や水の中にもイエスはきちんと存在する始末。

>最後の誘惑
こちらこそですよ!
機会があったら(というより作りたい!)あの映画を肴に酒でも酌み交わしたいところです笑。

ところでソーニャ可愛いですね!
Posted by deco at 2006年05月20日 02:24
ええ、ロバの名前がバルタザールです。

ただ、ここでは賢者という意味づけというよりも、イエスの受難をロバの無惨な生涯に透かし見ているような感じです。ブレッソンは敬虔なカトリック信者なんですよ。

でもパッションと比較にするのも失礼なくらい、映画技法が冴え渡っていますし、なんと言ってもロバが苛められて苛められて苛め抜かれる、というプロットがえれえ可笑しいのでオススメです(笑)。

>あの映画を肴に酒でも酌み交わしたいところです

いいですねえ。decoさんとは一度いろいろお話してみたかったんです。ぜひそういう機会作りましょう!

>ところでソーニャ可愛いですね!

ありがとうございます!でれでれです。
Posted by ぜんば at 2006年05月21日 01:33
では、メールさせて頂きます。ぜひぜひ近いうちにでも!
ワーイ!
Posted by deco at 2006年05月25日 00:59
お待ちしておりまーす。

こちらこそ、ワーイ!!
Posted by ぜんば at 2006年05月25日 12:46
今ふと思ったけど、遠藤周作のイエス小説&その後の使徒小説も、どうやら使徒小説の方が出来がいいらしく(イエス小説の方しか読んでない)、イエス小説も周囲の弟子どもの自己憐憫センチメンタリズムで窒息しそうなウザい内容だったなー。

キリスト教の本題はイエスだと私は思うのに、何故使徒?とずっと思っていたのだけど、要はやっぱり信仰の中心「神の子であり神であるイエス・キリスト」の個性を求めるなんて、神の心中を察する罪深すぎる行為だというか、要はそこに想像力や洞察力を湧かせる余地なんてないってことですね。笑。

そうすると『最後の誘惑』の原作者のカザンザキスはすごい罪深いクリスチャンつうことになるんだろうか、とか思うのですが、私には「イエス」という重力に対する胆力の問題のような気がしてならないです。

思考停止馬鹿馬鹿しいぜワーイ。
Posted by deco at 2008年08月20日 23:57
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