2011年11月17日

哲学者とのガチバトル?◆飲茶『 史上最強の哲学入門』

久しぶりにまとまった書評を書いたお!


飲茶
マガジン・マガジン
発売日:2010-04-14

板垣恵介氏の『バキ』シリーズの地下闘技場編に見立て、「哲学者が己の思索を武器に最強(真理)を目指す」というコンセプトは、美味しいところを持って来たな、というのが第一印象。
読了後、第3ラウンド「神様の『真理』」以外の「真理の『真理』」、「国家の『真理』」、存在の『真理』」については、大味ながら思ったよりわかりやすく体系立てられて纏まっているという印象。

この著書の最大の特徴は、何といってもこの4ラウンドの分類にあって、古代だの中世だの近代だのの年表形式で分けられているわけではない。ここはこの著書の肝でもあり、存在意義でもあると思う(ただしこれは、共通のラウンドが無ければ成立しないので、『西洋哲学』という括りの中でのみ語られる文脈に限る)。
なぜなら古代から現代まで、哲学者は何も哲学を哲学していたわけではなく、個々に己の目指す『真理』を追究していたからで、それがどういうベクトルを示すものなのかは、時代ではなく『真理』の種類によるものだからだ。
(その辺をきちんと分けて俯瞰できないと、数多のとっても退屈な哲学史の本の出来上がりということになるし、多分一読しても何も頭に残らない残念なものになった筈だ)

ソクラテスは国家に対する疑問を呈したが、なるほど『知』という命題を巡る戦いをしていたと読み解くと、その命題を誰がどのように引き継いだのかが見えやすい。一方のプラトンの「イデア論」は、一見、師ソクラテスを継いだようにも思えるが、彼の活動がアカデメイア、後の国家(大学)高等教育に繋がって行ったことを考えると、『国家の真理』を巡る活動として、アリストテレスの登場の下地となったことが理解しやすくなる。

何より、かなり大雑把ながら各思想家たちの「『真理』を求める動機」というかキャラ的エピソードを主軸に(思想はつまみ程度で)、後の思想家へのバトンタッチを描く手法は、いわゆる「キャラ萌え」の余地を作り出し、その思想家への人間的関心から当人の著作物に直に当たるきっかけを強力に作り出すだろう、と思う。
そのキャラ性の取り上げ方、ポイントの掴み方に対する賛否は当然あるだろうが、これはあくまで著者である飲茶氏の結んだ像でしかない。気になったら当人の著作物に直行すればいい。それが多分、何だか難しくて現実離れしている印象のある「哲学書」との一番良い出会い方だろうと思う。
だから、この本は良い出会いのきっかけを作る本として、良質の入門書だと思う。

とはいえ以降にも述べるけれど、ソクラテスやイエスといった、
当人直筆の言葉が一切残っていない人たちの文言の場合、実際の著者のフィルターが入っていることには気をつけて接しなければいけない。そういう意味では、ソクラテスやイエスはラウンドに登板するのに適当だったのかどうか、微妙な疑問も出てくるのだけれど。



そして、おそらくそれ故に、第3章の『神様の『真理』」については、前2章分の面白さと疾走感を激しく欠く。
確かにキリスト教神学は、良くも悪くも西洋思想史に最大の影響を与えたものの1つだ。ただしこれも、キリスト教がキリスト教として成立した後の話に限る。
トマス・アクゥイナスの神学論の根底には、どう頑張っても古代ギリシャ哲学的弁証法が下支えをしているし、それは西洋社会的思考法の根底であると言ってもいい(それを肯定するにしろ否定するにしろ)。

だから、「ナザレのイエス(本名はイエス・ベン・ヨセフじゃなくてこっちね)」はいわば前書き的な位置づけにあたるものだし、全く思考ルールの異なる古代ユダヤ教から出て来たものとして扱わなければならない。そもそもイエスの教え自体、どの福音書から引いたのかが残念なくらい恣意的すぎる。磔刑から原始教団の成立、そしてローマ国教成立までの経緯も突っ込みどころ満載だ。そもそもイエスの戦いの正体自体が大きな謎に近い。

おそらく、西洋思想史上の「神様の『真理』」というラウンドを始めるべきは、アウグスティヌスからだったのだろう。

百歩譲って前置きにイエスを入れるならば、ユダヤ教を世界宗教へとシフトチェンジし、キリスト教の礎を築いたパウロを同時に並べるのがフェアというもの。
キリスト教は、純正ユダヤ人である弟子たちによって後生大事に掌中に抱えられたもの(あくまでユダヤ教異端の範疇内のもの)が、ローマ市民権を持ったユダヤ人パウロの手によって変質・整理された瞬間に今日に続く原型ができたといってもいいのだから。

そして。
「神学と哲学の相性の悪さ」を巡ってこのラウンドは進んで行くが、ちなみに中世当時の神学とは、社会的な視点でいえばすなわち国歌論であり、地上における権力の正当性の問題でもあった。ミクロの視点でいえば、人間の生存権を巡る問題だった。自分が生きていて良い理由、権力の座に就いて良い理由を全て神に丸投げし、神を拠り所にした時代だったからだ。
丸投げしながらも、あれだけバカ長い神学論をモノにした中世のトマスや、近代の幕開けとともに半泣きで「神は死んだ」と叫ばずにはいられなかったニーチェ。彼らの人間臭い動機の部分。
「神学=存在の正当性を巡る問題」という側面が切り捨てられてしまったことで、このラウンドは半分くらい生彩を欠いてしまったことが、残念といえば残念だ。


飲茶氏はこれから東洋哲学の本を上梓するそうだが、こちらではどのようなガチバトルを見せてくれるのか、とても楽しみだ。
posted by deco at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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