2007年02月15日

スピード上げてもっと(久々に浅井健一のこと)

やっとやさいの『Cold Mink Night vol.4』のチケ申込みをしたー。
去年のツアーの日比谷野音を諦めて、すごく生やさいの必要性が身にしみたので、チケ取れるといいなと思います。
今回は枚数制限があるので、枚数記入のかわりに「ライブで聴きたい曲」って項目だったのが新鮮でした。『Jhonny Hell』は、仕事中にランダムに流してたら、ようやくよさがわかってきたというか馴染んできた感じです。
いや、歌詞読んでるぶんには「いいな」って最初から思ったし、アルバム最初に聴いた時にも「まあいいかな」って感じだったんですが、今回のライブのメンバーに馴染めなかったのであんまり生音→音源ってフィードバックがなかったんですよ。たいてい「それまで響かなかった曲でも、ライブで何かの再発見をして深く聴けるようになる」ってパターンだったから、結果的にこのアルバムは好きな曲しか聴かなかったのでした。他の曲にも馴染めて嬉しいな−。

それで改めて思うんだけど、やさいの書く言葉は、まあやさいだからしょうがないか、って脈絡がわからん要素もあるにはあるんだけど、でも総じていつも透明だな、って思います。
なんでこんなに透明で優しいんだろう、って思います。
怒りややるせなさを歌ってても、どこか優しい。

たぶん哀しみを抱えながらも、ほんとうに根っこの部分では人間って存在を愛してるから、本当に優しい言葉や曲になるんだろうな、って思います。


今更、口先だけの優しさなんか煩わしい。
根性系励ましソングも、同世代感覚に乗せた共感ソングも限りなく遠い。
いわゆるラブソングなんか、どこに共感すればいいのかわかんない。

言葉はこの世に溢れ返っていて、その殆どが単なる騒音のように聞こえます。おさまりのいい言葉なんてあってもなくても同じような存在で、でも音を伴ってるから単なる騒音にしか聞こえないんだろうな、と思ったりします。その中から、言葉としてきちんと届くものって物凄く少ない。
やさいの言葉は、わたしにとってそんな貴重で滅多に出会えないものの一つなのです。

わたしは以前、やさいの言葉の世界にとても影響されて、「この世界や隣にいる相手への愛と感謝を込めながら、でも何の意味もないふりをして、足許のどんぐりを拾って相手にあげる」ってエピソードを小説として書いたことがあります。多分、こういうものを「愛」っていうんだろう、って自分の中で考えて、一生懸命書きました。残念ながら仕事としてじゃなく、文章書き趣味としてですが笑。
そしたら今回『Green Jerry』という曲の中で、「木の実を拾ってあなたに贈るよ」ってフレーズがあったんですよ。
なんか、やさいから分けてもらったやさしい感情のようなものとか「愛」ってものが大気を一周して、再び届けられたような気がしました。

「愛」っていわゆる「恋愛」とは別のものだと思います。もっと大きくてなにげなくて気紛れで、でも確かに世界じゅうに欠片として散らばっているような、きれいで捉えどころのないものだと思います。それは人が発明したものなんかじゃないものなんだろう、とも思います。
世界が在るということ、存在があるということ、それ自体のことなんだと思います。

やさいはそれを、本当に胸を打つような透明な言葉や音として拾って私たちに届けてくれる。そんな気がします。

わたしもいつかそんなふうに、それを拾って読者の方に贈れるようなものを創れるようになりたいな、と、いつも願って目先を生きてるのですが、とても難しいことなんだな、と思う一方です。



ジョナサン・キャロルという作家の中では、究極の悪は死だそうですが、彼の本の中で、こんなくだりがあります。「何でもいいから世界にひとつだけでもくれてやれ。それだけが俺たちが世界を出し抜く唯一の方法なんだ」(うろ覚えなので引用じゃないです)。ここでの「世界」は、「運命」と言い換えてもいいものだろうと思うのですが、ここで言われている「くれてやるべきもの」は、憎しみではありません。自分の中から引きずり出した、かけがえのない「何か」です。私はこれは「愛」のことなんだろう、と思って読んでいました。
結局は運命と対等になり、ある種自由になるためには、借り物ではない「愛」を贈っていくしかないのだろうと。


やさいのやり方の方がさりげないぶん好きですが、もしかしたらやさいの歌う怒りややるせなさの中に垣間見える哀しみは、キャロルの「愛」に似ているのかな、と思ったりもするのでした。

正直、優しさとは程遠いというか、世界に対する怒りの方が強い私(人間出来てないんですよ)には、そっちのやり方の方が似合ってるのかもしれないなーとか。



やさいの歌は私にとって、ネタ拾いの対象とかそういうものではなく、自分なりの言葉でほんとうの言葉を探しなよ、と促してくれるような、そんな存在なわけです。

とりとめないけど、そんな感じで。




関係ないですが、私はどうも照れが入ってというより「やさい」呼ばわりするのに慣れてしまって、どうしても「ベンジー」と呼べないのですが、やっぱりファン的にはいかんことなのでしょうか笑。
posted by deco at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 浅井健一関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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