
死刑にいたる病 (ハヤカワ文庫JA)
少し気になった作家さんは、とりあえず一通り読んでみてから判断をするのだけど(各作品群の解釈のし直しとか)、一応自分的に櫛木理宇世界への旅は、これでだいたい一段落したかな、といった気がします。。
ここまでで読了したもの
・『少女葬』……前回記事書いた。

少女葬 (新潮文庫)
・『赤と白』……割とよかったけど、ひとり唐突な人物がいる。

赤と白 (集英社文庫)
・『209号室には知らない子供がいる』……この手のやつは、うちのくまたちなら軽く退治するな(始終退治してるかもしれない)。
『瑕死物件 209号室のアオイ』という改題されたバージョンが出ています。

209号室には知らない子供がいる
・『世界が赫(あか)に染まる日に』……えっと、片方中二病だった、よね?

世界が赫(あか)に染まる日に
・『死刑に至る病』……『チェインドッグ』の改題。爽やかシリアルさんが登場して、主人公が深淵にガン見されるよ。

死刑にいたる病 (ハヤカワ文庫JA)
・『避雷針の夏』……話の主題はそこじゃないけど、少女ふたりの友情と決意って絵になるなあって。

避雷針の夏 (光文社文庫)
・『寄居虫女』……『侵蝕 壊される家族の記録』というタイトルで改題されたバージョンが出ています。
内容的には、改題前の方が合っているのかな、と思いました。

寄居虫女 (単行本)

侵蝕 壊される家族の記録 (角川ホラー文庫)
・『鵜頭川村事件』……1979年の閉鎖的な村を舞台にした作品。上記までの数冊と若干毛色が違っています。「過去の時代」をいかに描くかという点で、おそらく著者の底力が問われる作品ではないかな、と思いました。

鵜頭川村事件
「一段落」というのは、『だいたい自分にとって馴染みになった』という意味合いというか、今後も付き合っていくか自分に合わないかの感触を、だいたい掴んだ段階、といった感じ?です。
ちなみに、この方の著作については、ほぼ必ず初出後に改題内容修正版が出るイメージなのですが、出版社側のセールス的な意図が大きいのかもしれませんし、もしかしたら著者ご本人の意図なのかもしれません。その辺の事情は、読者は知りようがないです。でも、たいがい改題版の方がタイトルがひどくなってる気がしています。
具体的には、いわゆる「凄惨な事件の実録ルポもの」風のセンセーショナルなタイトルに改題される傾向が強く、結果的に作品の主題とズレが生じている気がするので、著者側の意向ではない気がします。元タイトルが確かにコピーライト的には比較的大人しめで、販売戦略的にテコ入れが行われたのは、出版社側が著者を「売れ得る作家」として評価している、というか、商品価値を認めているのだろうとは思います。
でも、主題とズレちゃうのは、作品が可哀想だ。
出版社との力関係とかもあるだろうとは思いますが、こればかりは、著者がもっとキャッチーな(笑)タイトルを付けるべくどうにか頑張るしかない。ていうか、改題後のタイトルで納得しているなら、それは少し自作をもっと大事にしたほうがいいように思ったりします。
ていうか。いくらなんでも『死刑に至る病』ってタイトルは無いだろというか、ほとんど永井豪先生の『みだらなヒモ』という素敵なダメタイトルを思わせる秀逸ぶりなので、笑いを取りに行ったのでないとしたら、何故そんなひどいタイトルにしたのか、気になってたまりません。
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話のついでに『死刑に至る病』ですが、死刑確定のシリアルキラー(超絶イケメン中年)が、Fランこじらせ主人公に「シリアルキラーの誇りにかけて、最後に挙げられてる犯行だけは自分の仕事じゃないことを調査証明してほしい」と依頼する話です。「イケメンなシリアルさんは、子供の頃によく通ってたパン屋のお兄さんでした」という繋がりです。
あ、このキャッチコピー(手書き風フォント)で映画予告とか一瞬考えちゃった。
それで、引き受けた主人公はまあ、深淵に覗き込まれるという物語です。二度も言ったね!言ったよ。だってこのタイトル超絶ダサいからね!
ええと、正直なところ、わたしは『死刑に至る病』での主人公Fランこじらせについても「開き直れよ」としか思わなかったし(おそらく思春期こじらせたことなくて……)、「ぼっち状態」にしても、「『ぼっちのでこくーる』とはわたしのことだが(困惑)」としか思わなかったし、つまり主人公にもそしてトリックスターであるシリアルさんにも1ミリも感情移入できなかったです。
というか、主人公だけじゃなくて、シリアルさんてばシリアルさんのくせに中二病の気まであるんですが。
中二病とは生まれ持った才能というか、別に死に至らないけど死んでも治らない病だという持論があるんですが、自分自身が中二病の素質がないせいか、中二病の人に対しては、面白い生き物のように鑑賞することしかできなくてですね。あの伝説の中二神グレアム・ダルトン様や芥川龍之介様、そして澁澤龍彦様の持つ技の数々をもってしても、その偉業がよくわからんのですよ。異なる人種との断絶って怖いね!
というわけで、作中では○○さん(適宜、自分に破滅的な影響力を持つイケメンとか美少女の名前を入れてください)の如き甘美な影響力を誇るシリアルさんにも、多分影響されないだろうな、と思ったものです。そもそも出会った全ての人を魅了するイケメンとか好みじゃないので、まじでどこかへ行ってくれ。さっきから「イケメンイケメン」連呼してますが、わたしのなかで「イケメン」て、「顔はいい(らしい)が人格的な薄っぺらさが顔にも出とるわ」と言いたい系の、ある種の類型キャラに対するカテゴリ呼称になっていてですね。真にかっこよかったためしがないので、つまりは、わたしのなかでは蔑称です。ごめんねイケメン。
とはいえ、「自分は影響されないよ」と自信を持っている人に限って足元を掬われるとはよく言ったものです。
この主人公の場合は「こじらせかつ中二病」ゆえ、イケメンの放つ圧倒的魅力だの損なわれた自尊心だの何だのをくすぐられて徐々に影響下に入っていくわけですが、わたしの場合、相手にいちいち胡散臭さを感じつつも、自分の状況によっては好奇心から引き受けかねない。そしてただの好奇心のつもりが、気付けばとんだ深みにはまってた、というのはよく聞く話です。
ついでにAmazon書評にも噛みついておくけどこの作品、「ものすごくスペックの高い(シリアルキラーとして)シリアルを描こうとしたというなら、レクター博士をもう少し見習え」的なやつを見かけたのですが、言っておくけどわたしレクター博士については話し出すと長いからね。とりあえずこの書評が、シリアルキラーの高みを求めていることは理解したけど、いい参考シリアルというなら『悪魔のいけにえ』の長兄にしとけ、と言うに留めたいと思います。なにしろ自家製チリソースがご近所で評判なんだぞ。
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あと、確かにレクター博士は他者の思考と行動を誘導しますし、『死刑(略)』のシリアルさんもおそらくその辺をモデルとしたスタイルで誘導を行います。わたしが読んだ限り、櫛木氏の作品の多くでは、そうした明確なシリアルさんでなくても、他者をコントロールしようとする人物がほぼ必ず登場します。その状況下で、主人公たち(多くは複数主人公です)は必然的に行動の選択を迫られ、それぞれの運命に至ります。
『少女葬』レビューで触れ忘れた気がしますが、この手のジャンルでは、作品から、または著者から明確な意思のもと、「もし自分が主人公の立場だったら、どうだった?」という命題を突きつけられます。「この手のジャンル」というのは、読者自身の持つ判断力もしくは洞察力、冷静さ、優しさ、勇気といったものを、「行動の選択次第では、「悲劇」(多くが犯罪被害という形です)が回避できたかもしれない」といった仮定の形で、読者自身の「過去の失敗体験や敗北体験、ときに良心に対してぐいぐいと訴えてくるやつです。
えぐいですよね。
いや、ときどき著者が意図的に読者側の良心や善性を試しにかかってくるやつがあるよね、って思うんですが(ルポ形式ものに多い気がする)、あれは何様感がまじでえぐい。むしろ著者の自意識が。まずその謎の高みからの目線やめろ、としか言いようがない。だからわたしは遠藤周作作品や『シンドラーのリスト』的な戦争極限状態を舞台にしたハートフル啓蒙ものが大嫌いです。
ハートフル啓蒙ものといえば、忘れちゃいけない。中でもひねり技をかましているのが、トラウマ胸糞映画としてよく名前が挙がる『ダンサー・イン・ザ・ダーク』です。監督のウエメセぶりに気付いてくれた人は、きっとわたしのともだち。
で、ちょっとひねってるところといえば、受け手自身の善性ではなく、善意の人を襲う不幸のがぶり寄り状態ストレスへの耐性の限界を試しにかかってくるところでしょうか。ちなみに、「うわあひどい胸糞」ってなったら合格です。

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ラース・フォン・トリアー監督が『ダンサー・イン・ザ・ダーク』において行ったことは、
1/障害者ながら純粋さと優しさを失わない主人公の無垢さや前向きな姿勢をこれでもかとアピール
↓
2/しかも置かれた境遇まで厳しい中、『そんな中でも前向きいじらしい』と共感を煽る(ここまでが仕掛け)
↓
3/準備万端状態からの、主人公を襲う悲劇と不条理の波状攻撃! でも主人公は前向きでいじらしい! 更に高まる共感と同情の嵐!
↓
4/容赦ない死刑執行シーン(尺が長い)で観客全員をものすごく後味が悪い気分に陥れる。
心の綺麗な弱者を襲う世の中の不条理を鋭くあぶり出してラースまんぞく。
というやつで、なんていうか「徹底的に弱者かつ聖女として描かれる障害者」への哀れみを強いる映画です。そして、「障害者(聾啞のうえおそらく軽度知的障害者であることも暗示している)」という明確な線引きを行うことで、無意識なウエメセを誘導しているように思えます。「障害者という線引き」は、観客と主人公とを線引きし、安全圏から共感させる装置になります。その上で、観客が心情的に主人公を全肯定するよう誘導。主人公の純粋さへの好意から、不遇さとそこから引き起こされる悲劇に対し、無条件に主人公への同情を持つよう導線が引かれています。安心して「主人公はひたすら可哀想なのに救いが一切無いなんて、ひどすぎて胸糞」と言えるわけです(ちなみに「胸糞」はトリアー監督にとって褒め言葉だと思ってます)。
でもこの構造、要は「障害者である主人公は心が綺麗でひたすら被害者」という思考停止を行わせる構造で、アニメ版『フランダースの犬』の「主人公は貧乏だけど心が綺麗でひたすら可哀想」と全く同じ構造だと思っています。何その安い同情。受け手側が善性を試された方がまだましじゃないのか(遠藤周作には試されたくないけど)。何故ならそれは「弱者を大切に(ただし安全圏から)」というある種の思考誘導で、受け手を馬鹿にするにも程があると思うからです。トリアー監督ないしひたすら可哀想ものの作り手は、彼らの表現する「弱者」に実際に手を差し伸べる気があるのかと。もしくは自身がその立場に立つことを一瞬でも考えたことがあるのかと。
何より、他者を「弱者」と断定すること程、他者を小馬鹿にする行為はないと思います。
その安全圏からの人権主張のために、不幸のがぶり寄り状態を構成するなと。それ、シリアルさんとやってることは同じだよね?
第一にそうした根拠で、わたしはmetoo運動だの不法移民活動だのを肯定しません。だって「可哀想」って自己決定して嬉しいか?
話が長くなりましたが、そんなこんなで、作中での悲劇ぶりではなく、監督の目線が本気でえぐいと思うので、この映画はまじで嫌いです。でもよく主張しているけど、ビョークは素晴らしいよ。
ていうか、そういえばこれ櫛木作品読んだよ記事だった。
『櫛木理宇』という作家の作品には、上記のような「何様感(ウエメセと言い換えてもいい)」って感じないんですよね。わたしが考えたその理由は後でまとめますが、これはある種稀有かもしれません。
話を戻して、本題の「櫛木理宇作品所感」です。
若干、ここまでの本文内容や、『少女葬』感想と被る点は多いかと思います。
幾つか共通して見られるモチーフは、
・未成年の男の子・特に女の子が、地方在住という条件によって、将来の可能性を恐ろしいほど狭められ、時に断ち切られている状況
「就職などの機会が狭められている」という意味合いではなく、生活環境の閉鎖性ゆえに「人間関係のしがらみ」が枷となっている、という意味です。
わたしが読んだ限り、ほとんどの櫛木作品の舞台が、地方都市または都市とも呼べないような村、非常に特殊な状況によって限定された環境が主人公の生きる世界となっています。この環境が、次に挙げる「家族関係」の歪みに拍車をかけます。
・数代に渡る関係性の歪みに起因する血族(主として親子)関係の歪みが、多くの場合悲劇の原因となっている
「親子関係」は、櫛木作品を読む上で欠かせないテーマだと思います。
そして、問題の根源が「親子」という二世代で語れるものではなく、それ以前の「親とその親である祖父や祖母」と連綿と続いた歪みであって、もはや個人の中で吸収し切れないほどの歪みとして、主人公やその同世代による「事件」の瞬間に至る、という構造を、著者は描きたいのだろうな、と思います。親子などの血縁間での関係性の歪みが当事者だけの問題ではなく、それ以前の歪みの積み重ねであることは、しばしば指摘されることだと思いますが、櫛木作品はこの要素について、とても生々しく物語っていると思います。
上記2点は、ある種の所感を論拠としますが、実在の事件をテーマとしている場合でも参考文献からのネタではなく、著者の経験に基づいた生の、血肉として持っているテーマなのだろうな、と思っています。
****ここまで若干真面目な分析。以下はある意味ツッコミ的なやつ****
・作中で嫌な奴や、正道を踏み外す人物は喫煙率が高い
櫛木先生、嫌煙者なんだろうなー。
『鵜頭川村事件』を読んで、確信に変わりました(笑)。
現代を舞台にした作品で、特に生活に乱れのない(ゆえに与えられた役割のもと鬱屈としている)人物や未成年視点の場合、ある種現代の風潮を表現しているとも言えるかな、とも思うのですよ。「喫煙は望ましくないこと」という共通認識が強い時代なので、ある種の装置として使えると思います。同様に、ここまでの嫌煙ブームを生んだ直接の元凶とも言えるだろう、団塊世代の無軌道な喫煙や付随する公共マナーゼロ意識に対する嫌悪(他にもこのブームには仕掛けがあると思ってるんですが、話が逸れるので割愛)を、親世代の嫌煙意識もしくは堕落の装置として使うことも、可能だと思います。
ただ、1979年の閉鎖的な村を舞台にした作品で、主人公(男性)が端的にヘビースモーカーへの嫌悪を示すのは、時代背景的にあまり自然ではない。
たとえば、その喫煙者への嫌悪が「喫煙」という行為を含むあらゆる行為に結びついているなら、まあわかる。もしくは、嫌悪している相手を嫌う根拠の一端として、無神経だったり悪意ある喫煙マナー(煙をわざと相手の顔に吹きかけるとか)を描くのなら、それも不自然ではない。
主人公が何らかの理由から喫煙への嫌悪があることを前後で描いていれば、それもまあありかなと。
ただ、そうした因果関係を描かずに、1970年代の主人公(男性)にさらっと喫煙行為のみを嫌悪させたとすれば、「嫌煙=常識」という認識を疑ってもみない読者以外は違和感を感じるかなと。
そして、その違和感の正体は、作者自身の価値観がおそらく時代設定を超越して漏れ出てしまったことにあるのではないかな、と思ったのでした。
・作中人物は、ストレス下に置かれるともれなく激痩せする
もう死への行軍の終着点あたりまで進んでいて、体が栄養を受け付けないような状況だったりすれば(読んだ限り、櫛木作品において病死というか「事件性のない死」は、相当少ない)、それはまあそうだと思うのですが、作中人物たち、「睡眠不足とそれによる疲弊」だけでも漏れなく激痩せしてるぞ。
「登場人物が精神的・物理的に激しいストレス下にある」という記号として激痩せが使われているようにすら感じさせられる安定の痩せっぷりなので、「著者はきっと痩せやすい体質なんだろうな」とか、勝手な憶測が止まりませんでした。
だってわたしは相当なストレス状態が続いても、激しく胃腸を壊した時以外、激痩せしたことないぞ。何故だ。
(かなりどうでもいい分析)
・多分ギャル系女子とかビッチは嫌い
ギャル系とビッチをまとめたのは、ビッチ女(加害者)として登場する十代キャラがだいたい漏れなくギャル系だからです(笑)。
『少女葬』感想文では書き忘れましたが、加害者となる十代女性もまた、実のところ同時に『喰われる』立場でもあったわけですが、そこに対する『喰う/喰われる』行為の持つ表裏関係への言及はゼロだったと記憶しています。むしろ「悪は滅んだ」的な後日談として、『加害者もまた後に尻尾切りをされた』的な情報が描かれているのみです。
物語の焦点を「運命が分かたれたふたりの主人公」に絞るならばそれも正解のように思いますが(ちなみに「運命の分岐」とか評されているものの方が多いけど、この作品においては、結局「弱さ」が地獄を招きます)、個人的には捕食システムの下流を描いた作品として、この加害者十代女性の弱さという闇も最後にもう少し深堀りしてほしかったです。それがあるのと無いのでは、『喰う/喰われる』テーマとしての凄みが全然違ったはず。
ネタバレすると、悲劇に見舞われた方もギャル系だったよね。
そういえば『赤と白』においても、物語を破滅の方向へ加速させるのはギャル系女子だったな、と思い出します。
登場までは若干スクールカースト内一軍落ちからの、主人公への接触的なやつで自然っぽいんですが、その後の唐突感が凄かった。このギャル系の持つ闇も相当深そうなのですが、最後までエイリアン(異物)という意味での謎の行動力を発揮しただけだったなと。
このギャル系女子抜きで、またはギャル系もギャル系なりにもっと主人公たちの思春期の鬱屈にがっつり参加させていれば(行動ではなく行動理由ね)、この異様なまでの唐突感は感じなかっただろうと思いました。
後に述べる『原罪を背負った美少女』が美しいので、まあ楽しく読めたんですが。
・結婚すると必ず姑の「子供産め」攻撃に見舞われる(一方夫は「姑の永遠の子供であることが暴露される」)
いや姑攻撃とか突っ撥ねろよとか、とっとと相手の家族と縁切るか離婚しろよ、という感想しかなかったんですが、ゲスパーですいません。
多分これ、著者ご本人または著者の身近な環境において実際に起きた、またありふれた光景だった。
一応、「地方都市または旧態依然とした村の価値観」として描かれていますが、この状況への行間の悲鳴は本当に強い。
わたしにはあまりピンと来ない感覚なので(共感性の欠如)深いコメントは避けますが、これは櫛木理宇という作家のテーマのひとつなのかもしれないな、と思います。
・『原罪を背負った美少女』が美しい
十代を主役に置いた作品の多くに、『原罪を背負った美少女』が登場するのですが、これでもか、というくらいスティグマてんこ盛り状態の神性を付与されています。しかも、少女にこだわりの強いわたしも満足の美少女ぶりです。意外なキャラも当てはまるので、美少女好きは櫛木作品を読み漁って美少女探しをしよう!
ちなみに、ここでいう『原罪』とは、「生まれてきたこと、存在していること自体の罪」「生まれ持って付与された罪」」という本来的に比較的正しい意味として定義されていて、生まれ持って美少女たちに付与されています。
「生まれてきたこと、存在していること自体の罪」もまた、櫛木作品の人間関係の歪みテーマの大きな軸の一つかなと思ったのですが、中でも等身大の存在としては全く共感できない程の超越性を誇っている、つまりほとんど概念として凝縮されたような存在がこの『原罪を背負った美少女』というところも、『美少女』の名に相応しいです。というわけで、作者はたぶん美少女萌えだと思います。
以上です。
それなりに真面目な考察と、若干挙足取りに近いくだらない分析を書き連ねてみた感じになってしまいました。
ここまでの読書を通じて、櫛木理宇という作家は、生の作者個人の顔をぽろっと作品世界の価値観に投影してしまう癖があるように思いました。
そういう作風をわたしは否定しませんし、作家次第ではむしろ好きなスタイルなのですが、櫛木作品では、それが瑕疵に見えてしまう。
それはおそらく、櫛木作品の多くがしばしば「世間を震撼させたあの実在の事件」から構想を得ているスタイルもしくは「貧困ビジネス、いじめ、集団リンチ」などの社会問題をモチーフとしたものだからで、最初の数冊を読んでいたあたりでは、桐野夏生系ジャンルを目指しているのかと思ったりしたものです(笑)。
そうした題材を前面に出す「社会派」系作品(とまとめていいものか)の場合、作者の生の顔を登場人物に投影するスタイルはかなりミスマッチではないか、ということだと思います。
おそらくこうしたジャンルの場合、作者は全ての登場人物から等しく距離を置き、慎重に分析を重ねて物語を進めるべきだった。作者自身の価値観は、物語構成の切り口で示す方がしっくりくるジャンルだった。そんな風に思いました。
もう一点の原因は、ぽろっと出してしまった「生の要素」のせいで、作品展開に唐突感や「な ん で ?(範馬勇次郎で)」感を生んでしまっている場合がとても多い。これは多分、その「生の要素」に無自覚だったりするんじゃないかなーと。これが作家分析のネタとして面白い場合も多いし、良い勢いを与える場合も多いとは思います。ただ、櫛木作品の場合、社会派()系テーマの取り方に反し、切り口や結論がなんだかんだ「弱さは罪」という、非常に主観的かつ感情論が勝る性質のように思います。
ならば、ぽろっとやっちまったせいで唐突感しか生まない「癖」に対しては、「弱さ」として作品が復讐を企ててもおかしくない。
作風が一見理性的でありながら感情的、「癖」も感情的なものであるならば、理性の建前と無意識の「癖」はコンフリクトを起こしやすい危険を孕む。特に、「癖」を構成する要素と作品テーマが非常に密接な関係性を持つものであれば、尚更です。
作中人物自身がしばしば、自らの「無意識に持つ価値観や言動」によって断罪されますが、櫛木作品の幾つかは、作者の「癖」もしくは無意識に持つ価値観が、掲げたテーマを裏切ったり物語を散漫にしてしまいがちだな、という印象です。
結果として櫛木作品は、重いテーマに対して読後感が軽い。
このくらいの軽さが売れるにはちょうどいいのかもしれない、というような、ゲスい感想はやめておきます。
わたしは、文章には少なからず著者の生が投影されてしまうものだと思っていますし、数多の作品を通じて作家は自分自身を繰り返し描いていると、よく思います。そういう特徴が強く見られる作家が好きなだけなのかもしれませんが。だから、作家の生の顔が表出することを否定しているわけではないです。
なんだかボロクソに言いたいがための感想文のようになってしまって恐縮ですが、作者の「生の顔」が良い効果を上げている部分もあって、作品が作者と等身大であるゆえに、冒頭に書いた「ウエメセ感」やドヤ感があまり感じられないという成果を生んでいるように思います。
冒頭に挙げたようなウエメセ作品じゃない限りは、きっとまた手に取ると思います。元々の題材の取り方も嫌いじゃないし。
ちなみに最大の戦果といえば、やっぱり『美少女萌え』だと思うのですが、
『寄居虫女』あるいは『侵蝕 壊される家族の記録』がある意味解放の物語として幕を閉じたのは、おそらくそのせい。本来の、モデルとなった事件群を追究するならば、あの少女はあのように再生してはならない。それが原因で、この作品は作品の主軸がブレてしまっている。これを「実在の事件群の正体が見えにくいように」などと詭弁を弄して知ったつもりを気取る気はないです。実在の事件に題材をとった社会派()サスペンスというジャンルとして仮定するならば、桐野さんのある時期以降のニュータイプ戦レベルでブレブレです。
でも、これが「原罪を背負った美少女が歩みを始める物語」であるならば、前半の「事件」はラストの美少女の原罪を物語る「過去」として、ラストシーンである「現在あるいは明日」に向けて、きちんと収束する物語となっているように思いました。