2005年06月30日

人の原罪ってやつ

少し前に報道された例のご近所トラブル事件のことでいろいろ思ったこととか。
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私は纏めサイトを読んだだけで、そのアドレスも忘れてしまったくらいなので、確かなことは言えないし、そんな状態で詳細について語っちゃいかんと思うので、そこは割愛。
また発見したら追記なり何なりしておきます。

どんな事件だったかというと、「とある中年?のオバサンが昼夜構わず大音量で音楽を鳴らし、隣人が文句を言うとすごい形相で怒鳴り返して来た」つう非常にワイドショーネタなニュースだったので、正直当時は大田区のゴミばあさんネタ程度のよくあるネタ程度にしか認識してなかったんですよ。
むしろ、単なるご近所トラブルなのに、何故にこれ程執拗に長々と取り上げるんだうぜえな、という認識でした。

しかしその纏めサイトを読んでると、そのオバサンがそんなふうになってしまうまでの筆舌に尽し難い苦悩の人生とか、そもそも事は隣人から始まっていたらしいこととか、オバサンがキレて迫って来る映像(隣人が撮った)は素人がたまたま撮ったものにしてはブレも何もなく綺麗すぎる=作為が感じられることとか、いろいろ暗い気持ちになってしまう話満載だったのでした。


そのオバサンの半生そのものや事実関係は、それこそ通院記録だの家族の死亡記録だのを洗わないとはっきりしないし、隣人の身許もそれなりの確証が必要になるわけで、その上で起きた感情のもつれというのはもう、おそらくオバサン当人しかわかんないことなんだと思う。
だから、その纏めサイトは、あくまで「何故に単なるご近所トラブル事件程度の話なのに、マスコミのオバサン側の扱いはあたかも林真寿美レベルの大悪人なのか?」という、考えれば至極まともな疑問を呈する場として機能しているものなんだろう。


だけど、私は思ってしまった。
もしその纏めサイトで書かれている事実関係が本当なのであれば、そのオバサンにとって既に世界中が敵なんだろうな、と。隣人はそれを煽った、目に見える敵に過ぎない。だから(なんじゃないかと私は思う)、不利だろうが何だろうが、裁判を起こすに当たってそのオバサンは弁護士の手を借りずに自力で証拠を揃え、書類を作成して戦ったんだ。
確かに勝つに越したことはないだろう。
だけど、もうオバサンにとって、勝つか負けるかなんて問題じゃなかったんじゃないんだろうか。理由もなく不幸に見舞われた自分を叩きまくる世界に対して、倒れようがとにかく戦うしかなかったんじゃないだろうか。
むしろ、負けても、自分が世界に対して精一杯戦いを挑んだんだってことしか、オバサンにはもう残されたものがなかったんじゃないんだろうか。

それっていわゆる旧軍的というか(笑)、非常に(ブチ切れた時の)日本人的な性質が悪い方向に出た時の行動だなあ、とか思うわけですが、私もその手の「ギリギリまで我慢→ブチ切れ→玉砕覚悟の戦闘態勢」つうモードには入りやすいので、なんつうか妙に共感してしまったのでした。

いやね、私はそんなわけで、勝手にオバサンにドラマを読み取って共感していたわけなのですが、実際問題としては犯罪以外のこうした対人トラブルの場合、(しつこいけど、纏めサイトの目的自体がそうだと思う)一方的な悪人なんぞおそらく存在しないわけで、どちらにもそれなりの理というものがあって起きている摩擦なんだろうと思うのですよ。
理性ではそう、きちんとわかってます笑。
ただ、そんなことを言っても面白くないから、あくまで片方を悪人に仕立てるなり、何らかの三文ドラマをくっつけて事件報道って流してるんだろうし、だから私は、ワイドショーはもっての他で、ローカル事件報道にもそれなりの反発を感じてしまうのですが。

ま、同様に、本当にローカルネタでありながら、報道の有り様が余りに目に余るので纏めサイトが検証を始めた、という経緯なんだろうと。
それ自体はあくまで真偽を更に検証する必要のある資料の一環でしかないとは思うけど、でも、そのオバサンの半生が本当だとしたら、ああする以外に何ができただろうか、と私は思いました。

あんな状況下でも、あくまで冷静かつ理性的に勝ちを取りに行けましたか?



今日、今月のネムキの『チキタGUGU』を読んでて、「人は変わろうと思っても決して変われない」とクリップが語るのですよ。それは、「歳月が経つうちに解消されるだろうと思っていた、人間への憎しみ」のことなのですが。私はそこで何ともいえない気持ちになってしまいました。

人は変わることはできる、と思うのですよ。
でも、それは。
憎しみ、に限らず、不信感や虚無感、そういった感情を、一度自分自身を造り変えてしまう程に知ってしまったら、そうした一方通行の二度と戻れない変化ならできる、という意味なんじゃないんだろうか、とか、そうだとしたら、人間は(作中で「そこが人間である理由だ」とクリップは言われているので)なんて哀しい生き物なんだろう、と思ったりするのです。
切ないのは、そうした感情を時間をかけて捨てていき、犯した過ちを埋め合わせようとしても結局は無駄だったことからそうした結論に至ったということ。


そして、それが原罪なのだとしたら、原罪の本当の正体は記憶なんじゃないんだろうか、とか思ったりしました。
ユダヤ教の「原罪」は神の教えに背いてエデンを追放されたことであり、キリスト教の「原罪」は(それがイエスの犠牲によって許されたと言いつつ)イエス=メシアを死に追いやったことだったりするわけで、私は結局、それらは形は違えど普遍的な内罰性を付与することで、宗教への帰属を強める機能として働いているだけだと思ってしまうのですが(各信徒に殺されそうな意見ですが)。

こうした個人に帰結する内罰意識と、反動としての世界への敵意は、どうしたら救済されるんだろうかと。

(よく例に出して恐縮ですが)ハオ様という存在も、そういう意識が人の形を取ったような存在なんだと私は解釈してるし、『バキ』のドリアンも同様だったんだ、と思ったりするのです。だとしたら、板垣はもしかしたら最も安易で効果的な救済をドリアンに与えたんじゃないかと思ったりするのです。
つまり、自我の崩壊により、当人の抱えた原罪そのものを忘れること。


本当にそれしか方法はないんだろうか?
人は一度原罪を知ってしまったら、二度と変わることはできないんだろうか?


ねえ、イエス。
『背中をどついて「きみの罪は許された」』じゃ、人はもう救われなくなってるんだよ。

この記事へのコメント
原罪について書かれていますね。
原罪とは、聖書的にいえば、アダムとエバが、神から取って食べてはいけないと言われた「善悪知るの木の果」を取って食べて堕落したことです。
しかし、聖書は象徴と比喩で書かれています。
上記の堕落とは、時ならぬ時に時のものを望んだエバが天使長ルーシェルと不倫なる霊的性関係を結び、その堕落したエバが、良心の呵責からくる恐怖感から逃れ、もう一度神の前に立ちたいという思いからアダムを誘惑し、不倫なる肉的性関係を結んだことなのです。
そのため、アダムとエバは、サタン(堕落した天使長ルーシェル)を中心として子孫を増やすようになったのです。
そのため、アダムとエバの血統であるという一点で、すべての人類は「原罪」を生まれながらにして持つようになりました。
「原罪」を清算するために来られる方がメシヤです。
イエスキリストはまさにそのような方でした。
イエスキリストは、十字架につくために来たのではありません。
イエス自身が結婚し、真の父母となって、人類を重生させて原罪を清算し、地上に神の理想世界、すなわち地上天国を築くために来られたのです。
イエスが十字架についたのは、ユダヤ民族の無知と不信のためでした。
特に、民衆をイエスにつなげる使命を持っていた、洗礼ヨハネが十分に責任を果たさなかったことに原因があります。
どうか、、私のサイト「生きる意味とは何か」http://ikiruimitoha.com/ を一度訪ねてみてください。
貴方にとって、きっと役に立つ情報があるはずです。
Posted by 西田 at 2008年03月10日 18:30
すいません。
本文読んで下さい。
Posted by deco at 2008年03月10日 23:15
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『創世記』ひろい読み ― 知識の実
Excerpt: 02:16 では「善悪の知識」のないものに対して、神は命令していることになる。つまり、「善悪の知識」がなくても神の命令は守ることができ、そのような存在として、まずアダムとイブを創造したことになる。 ..
Weblog: JRF の私見:宗教と動機付け
Tracked: 2006-03-19 13:08
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