時間的にはジャストタイムからちょっとオーバーしちゃったかも。
普段はイエスっちとか書いてるけど、なんか怒られそうな悪寒がしたから「イエスたん」呼びにしてみた。
でもいつものように、
「ナザレのイエス(ソースはマルコ限定)」という人間を相手にしてるだけで、それ以外は特に意味ないです。
今年の特に後半は、フリーの私なんかもうどうしたら、って状態の不況っぷりでしたが、年末になってブッシュたんが愛らしい芸をまた見せてくれて、私の心はちょっぴりほんわかしました。
靴投げした記者の方は「拷問を受けている」と告発しているようで、まあ一国の大統領相手に靴投げテロとか実行した日には、それなりの見返りが返ってくるとかそういう世知辛い話なんだろうな、ということで軽やかにヌルーすることにして、あれはむしろブッシュたんの素早い身のこなしに注目するべき事件だったと思います。
んで、
http://www.sockandawe.com/ ▲
「ブッシュたんが靴よけるの見てるとしあわせな気持ちになる…
ブッシュたんに靴が当たっても『かわいそう!当てちゃった!』とかいいつつしあわせな気持ちになる… 」とかコピー付けたくなった、ラブリーな靴投げゲームを遊んで、みんなで残り少ないブッシュ政権を名残惜しみましょう(笑)。
んで、今年はかっこつけて、年賀状じゃなくてクリスマス&ニウイヤーカードにしてみた画像です。
きもちわるいと大好評です。
サイト用なので解像度低いけど、縦横比は合ってるので、ハガキサイズでプリントアウト&利用可能ですよん。需用があるか疑問だけど。笑。
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今年も私にとってのイエスっちの存在の意味を考えて過ごした12月でした。
(ちなみに「12月生まれの山羊座の男」というソースは、すごいがんがってもルカくらいしか出典見出せないし、クリスマスそのものがキリスト教以前のヨーロッパの地域信仰との抱き合わせというか上書きイベントみたいなものなので、イエスがいつ生まれなんてどうだっていいことなんだけど、とりあえず便乗祝いです)
私は毎年、この日時にはマルコを読むことにしてるのですが、イエスっちはほんとに感情豊かで躍動的で愛らしいですね。んで、何故(特に日本の)キリスト教はそうじゃないんだ、と不思議に思うのですが、8章34節の
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という言葉ほど厳しく相手の立ち位置と生き方を問い、しかも完全に相手の自由意志に委ねている言葉は無いと思います。そして私はそんなイエスの言葉に惚れたんだ。
定期的に「神よわたしはこんな悪いことをしてしまいましたどうかお許し下さい(メソ泣き)」な姿勢こそがフツーの教会やキリスト者(少なくとも私の知ってる日本人キリスト者で例外はいなかった)とは対極にある言葉だと思います。なんでこんなに正反対なんだ、っていつも思う。
私はちゃんと私の十字架を背負って歩んでいるんだろうか?
今年もまた、そんなふうにして自分の歩んできた今年一年を振り返ったりするのですた。
とりあえず喧嘩早いところだけは、弟子として大変イエス譲りだと思います。笑。
だめじゃん。